モーレツパンチ!!
2022-09-14T01:51:05+09:00
onikobu
キョーレツキック!! 改め
Excite Blog
M尾さん
http://kobushi.exblog.jp/30116413/
2022-09-11T22:49:00+09:00
2022-09-14T01:51:05+09:00
2022-09-11T22:49:39+09:00
onikobu
絵雑記
そんな人達をご紹介します。
〜旧HP モーレツパンチ!! 『うんち君のこぼれ話』より(2001年の記事)〜
世の中のある部分はこんな風になっているのかと教えてくれたのがM尾さんだった。
私が大学を卒業してすぐに勤めたのが、ある環境コンサルタント会社で、いわゆる環境アセスメントなどを主な業務としていた。他に造園コンサルタントや都市・地域計画のコンサルタントのようなこともやっていて、私自身は地域計画部なる部署に身を置いていた。
徹夜々々の苦しい日々で、いつ辞めたろうかと思いつつ過ごしていた入社2年目の夏頃、M尾さんがやって来た。話によると同業他社の社長の御曹司だという。将来の跡取りで、勉強のために数ヶ月程度出向という形で席を置くのだそうだ。年齢は25,6歳で、要するに金持ちのぼんぼんなのだが、お世辞にもいい男ではない。というより、こう言っては失礼だが、容姿としては世の平均よりも下の方に位置していると言える。その辺のことも影響しているのか、とにかくどうもひどく甘やかされて育ったような気配がある。
当時、会社は千代田区一番町という都心の一等地にあったが、テナントとして間借りしているだけのもので、社員用の駐車場などあるわけもなかった。バブルの真っ直中で民間の駐車場料金も安くはないだろうに、彼は当たり前のように自動車通勤をしていた。ジャラジャラと、これ見よがしに車のキーを鳴らしながら「ただの国産車ですよ」と、自分の車が最高級のソアラであることを自慢気に話していた。高級ブランドのダブルのスーツを本人はいつもビシッと着込んでいるつもりなのだろうが、実際は、あまり高くない身長の、もっちゃりしたぜい肉質の体の上にダボッと被せて歩いていた。この庶民派の会社からすれば、M尾さんの存在はおよそ場違いな印象があったが、彼の側でも我々をどこか小馬鹿にしているような態度が感じられなくもなかった。
M尾さんはアセスメントの仕事をやることになっていたのだが、その部署に空いた机がなかったために、席だけは地域計画部内の私の2つ隣に定められた。この時、私の隣、M尾さんとの間には1年後輩の新人が座っていた。この後輩は何とも落ち着きがなく、いつも女の子の側へふらふらと出かけていってはおしゃべりをしたり、机で居眠りをしているようなことが多く、私は内心「働きの悪い奴だ」という気持ちを持っていた。だが、その向こうのM尾さんの様子を目にするうち、この後輩が実に働き者に見えてきた。
そもそもM尾さんはほとんど定時に出社することがない。当たり前のような顔をして30分程度は遅れてくる。時々は出社しなかったりもする。
「アレ? M尾君は?」
と、期間限定の上司となったYさんが言うのだから無断欠勤なのだろう。それどころかM尾さんを受け入れる決定を下した責任者の片割れであるS尾専務(片割れのもう1人はご主人のS尾社長。尾つながりでM尾さんを引き受けたわけでもないだろうが)までもが行方を聴いて回っているのだから、やはり彼の行動は誰からも了承されたものではないようである。だが、M尾さんの様子を観察するに、彼の側では、当然そういった特権を与えられているのだとの傲慢なる思い込みを持っている雰囲気がある。まあ、しかしそれは良いとしよう。自分の父親の会社ではすぐ専務になるのだとか、既になっているのだとかいう話も聞く。当然同じような待遇が約束されているのだろうと思い込む理由も理解できなくはない。とはいえ実際のところ全然良くはないのだが、とりあえず百歩も千歩も譲って良しとする。重役だと思い込んでいるなら重役なりの仕事の仕方をしてくれればいいのだから。しかし、M尾さんの仕事ぶりと言ったら、これはもうなんとも想像力の限界を超えたようなあきれ果て具合である。
この会社にはアルバイトが多い。私の妻もここでアルバイトをしていた。そしてM尾さんにもアルバイトが付いていた。いや、本当のところアルバイトとは言えない。普通、アルバイトは会社が募集して、面接によって応募者の中から採用する。多くの場合は部署ごとに配置され、必要に応じて複数の社員に共用される。社員との相性や仕事の継続性などによって、1人の社員にほぼ専属的に使われることもあるが、基本的には部内の共有物(物と言っては失礼だが)である。当然、給料は会社が支払い、上司である社員個人とアルバイトとの間に雇用関係はない。
M尾さんが最初に来たとき、我々はその背後に見慣れぬ男性の姿を見た。初めは新しいアルバイトが雇われてM尾さんに付いたのだろうかと思った。だが、すぐそれが間違いであることが分かった。誰も彼の名前すら知らなかったし、M尾さんの期間限定上司であるYさんに至ってはこの男性の存在すら認識していない様子であった。彼はいつもM尾さんと共に現れた。いつもM尾さんの後を付いて歩き、M尾さんが行方をくらましたときは一緒に姿を消した。彼はM尾さんとは対照的にほっそりとした優男で、なかなかの二枚目であった。
M尾さんはYさんから仕事を与えられていたが、ほんの短期間のことでもあるからYさんとしてもやりにくかったのだろう。とりあえず任せた仕事は極めて単純で単発的な作業だった。普通にやればすぐに終わってしまって、時間を持て余してしまうだろうという程度の作業量と見受けられた。基本的には仕事は社員がやるものだ。仕事量と時間的猶予との兼ね合いで、補助的にアルバイトに仕事の一部を任せるというのが常識だろう。だが、M尾さんに常識はない。
Yさんが仕事の指示を与えるとM尾さんは素直に「はい、分かりました」と返事をした。そしてYさんが立ち去ったのを確認するとすぐに例の優男を呼びつけ、自分が受けた指示をそのまま偉そうに伝えた。
かくしてYさんがM尾さんに与えた仕事は、Yさんの全く知らないところで、会社が一銭の金をも支払っていない見知らぬ優男によって処理されていったのである。
私は人格的に見るべきところのない人物とは極力接触を断ちたいというところがあるので、M尾さんに話しかけることは一切なかった。だが、私の横に座っている後輩はそんなことはお構いなしである。気になったことはすぐに質問をする。ある時、珍しく自分の席に座っているM尾さんに、こう言った。
「あのー、M尾さん。いつも一緒にいるあの男の人はどういう人なんすか?」
もちろんこれは、あの優男がM尾さんの何なのかという質問である。M尾さんが来て以来、みんなが知りたがっていたことだ。直接話はしたくなかった私でも、その答えには聞耳を立てた。
「ああ、彼ですか。彼はもともとゴルフをやっていましてね。プロになる直前までいったんですけど、背中を痛めてゴルフをあきらめた男なんですよ」
なぜかM尾さんは自慢気に語った。
そんなことは訊いてない。優男がゴルフをやってようが、男優をやってようがそんなことはどうでもいい。なんであなたはその男を連れて歩いているのかということを訊いているのだ。だが、その答えに対して後輩がそれ以上の質問をすることはなかった。
ところで、優男が仕事をしている間、当のM尾さん本人は何をしているのかと言えば、どこかへ電話をかけていたりする。この当時は携帯電話なんてものはまだ普及していなかったので、彼が使っていたのは会社の電話である。就業時間中に会社の電話を使っているのだから当然仕事の電話なのだろうかと思えば、やはりというか、そうではなさそうである。まあ、仕事と言えば仕事の電話のようでもあるのだが、少なくともこの会社の仕事とは全く関係がない。例えばこんな調子である。
「もしもし、M尾です。ご無沙汰してます。実は今、別の会社に出向してましてね。いろいろと勉強させてもらってますよ。ところで、例の物件どうなってますか? そうですか。またよろしくお願いしますね」
いろいろと勉強させてもらってる? なんて面白いことを言う人だろうかと、横で聞いていて吹き出しそうになった。まさか本気で言ってるとは思えないが、しかし、M尾さんのことだから意外と本気の言葉だったのかも知れない。そうだとすれば、これはもう人生の達人である。これほどまでに何もしていない中から、自分の実となる経験を引き出すことができるのだから。
この会社の仕事には地図が不可欠で、プロジェクトごとに5万分の1や2万5千分の1の地形図を購入する。普通はそれこそアルバイトが買いに行くのだが、よっぽど仕事がなかったのか、YさんはM尾さんに買いに行って来るように言った。いつもの調子であれば例によって優男に丸投げするところなのに、外出するとなると別のようで、M尾さん自身が勇んで出かけていった。もちろん優男も当然のごとく一緒だった。
普通に行って来ればせいぜい1時間の買い物である。朝の10時頃に出ていったM尾さん達は当たり前なら11時には戻るはずである。ところが昼になっても戻らない。昼休みが終わってもまだ戻らない。そして2時を過ぎた頃、丸めた地図一本を持ってようやく2人が帰ってきた。2人ともニコニコと満足気である。よっぽど外出が楽しかったのだろう。それ以来仕事でもない(に違いない)のに2人揃ってどこかへ出かけてしまうことが多くなった。
M尾さんがこれほどまでに好き勝手をやれたのは、もちろん彼自身の質によるものが最大の要因だが、Yさんが管理者としてあまりにも野放しにし過ぎたということも原因の一つと言える。Yさんとしては、短期間でいなくなってしまう経験不足の人間に一般の社員同様の教育をする気にはなれなかったのだろうし、Yさんの目の届きにくいところにM尾さんが座っていたこともあって、簡単な仕事を与えたままほとんどほったらかしという状況が続いてしまったようである。また、レポートを書くような指示をM尾さんがS尾専務から直接に受けていたことも(これもM尾さん自身が書いたかどうかは定かではないが)Yさんを遠慮がちにさせたかもしれない。だが、M尾さんの席に来るたびにその姿が見えないということが多くなると、さすがにYさんも何も言わないでいるわけにはいかなくなった。あるとき、優男と一緒にどこからか帰ってきたばかりのM尾さんに向かってYさんが言った。
「どこに行ってたの?」
M尾さんが答える。
「ちょっと新宿の方へ」
そんな大まかなことを訊いているわけではない。何の仕事の件で何をするためにどんなところ、それは地名ではなくて、例えばどこかの会社か、役所か、図書館などの公共施設のようなところか、あるいは現地の視察にでも行ったのか、そういうことを具体的に説明しなさいと言っているのだ。だが、いちいちそんな風に質問の意味をかみ砕いて説明するのも面倒だったのだろう。Yさんはそれ以上何も訊かなかった。そして、部下を叱ることの苦手なYさんが、ここでおそらく最大限の注意を与えた。
「今度からは、どこに行くのかちゃんと分かるようにして行ってね」
本当にそれは注意というにはあまりにも穏やかな言い方だったが、心の中ではこんな風に怒鳴っていたに違いないと思う。
「営業でもねえのに毎日毎日ほっつき歩きやがって、会社をなめるのもいい加減にしやがれ。どうせサボって遊びに行ってるんだろうが、たとえ仕事だったとしても、どこに何しに行って何時ぐらいには戻りますって上司に断ってから出ていくのが常識だろうが。そんなことまで言われなきゃわからねえのか。せめて手に鞄ぐらい持ってけってんだ。行きも帰りも手ブラじゃ仕事にも見えやしねえ。だいたいあの優男は何だ。なんで知らねえやつが当たり前の顔して出入りしてやがるんだ。なにが『勉強させてもらってます』だ。笑わせるんじゃねえ、このクソ馬鹿タレがあ!」
実のところこれは私の心の叫びである。もちろん、こんな我々の気持ちなど察する気配もなく、M尾さんはただ素直に「はい、分かりました」と答えた。
翌日、いつものようにM尾さんと優男の姿が消えた。結局Yさんには何も断らずに出かけたようである。だが、見るとM尾さんの机の上には一枚のメモ用紙が載っている。私はM尾さんの進歩に対する多少の期待感を抱きながら机に近づいていった。
メモ用紙にはただ2つの文字だけが記されていた。
“新宿”
その後、M尾さんは予定より早く会社を去っていったように思う。誰も送別会を開こうと言い出す者はなかった。
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イタリア失業旅行記 〜その15 最後に再びローマ〜
http://kobushi.exblog.jp/29355338/
2021-01-01T18:38:00+09:00
2021-01-01T18:40:42+09:00
2021-01-01T18:38:47+09:00
onikobu
絵雑記
〜旧HP モーレツパンチ!! 『出不精が行く!!』より(2003年の記事)〜
ナポリでの夜。ホテル近くの安めし屋に入ると、やたらせっかちなウェイトレスが、
「スパゲッティ? フィッシュフライ?」
などと、私が言っているものとは全然違うメニューを押し付けてくる。
「それしかできねーよ」
という意味かと思って、やむなく、
「OK、OK」
と返事をしたが、他の客を見ていたらやはり普通に何でも注文できるらしい。
「なんだよチクショウ、昨日の晩もミックスフライだったんだぞ」
と、ちょっと機嫌を悪くした。
翌朝、そのぐらいしか思い出のないナポリを発って2時間半、10日ぶりにローマへ戻ってきた。明日は朝から空港へ向かうので、今日が観光の最終日。本日は外国へ行く。世界最小の国、『ヴァティカン市国』だ。日本語で表記する場合、“バチカン”と書いてもよいが、“バカチン”と間違ってはいけないので“ヴァティカン”としておく。
ローマ市内の地図を片手に徒歩でヴァティカンへ向かう。どこからがヴァティカン市国なのやらよく分からないまま、サン・ピエトロ寺院が近づいてきた。
「すげえ!」
そんな感想である。なんたる暇と金。なんせ建設に120年を費やしたという超豪華建物なので凄いのは当たり前だが、それにしてもだ。こんな建物はキリストの教えには一切関係なかろうに。屋根には高さ5,6mほどもあろうかという誰かさん達(聖人?)の全身彫刻が数十体も並んでいる。中へ入ればルネッサンスの巨人達による絵画や装飾に埋め尽くされていて、なんとも分かりやすい“美”の表現だ。実に西洋らしいと思った。西洋文化の集大成というか、とにかく目で見て分かる、手間暇、きらびやかさが全てというような価値観は、とても直接的で分かりやすいが深みがない。キリストの教えは精神の問題であるはずだが、後の世のカソリックの総本山がこれほどの唯物主義的価値観に満ちていることに嘆かわしさを覚える。
日本人観光客が寺院内で騒いだり、とてもマナーの悪い態度を取ったりしたために、『静粛令』なるものが出されて、以後寺院内ではガイドもできなくなったと、ここでは日本人は名指しで嫌味を言われる立場らしい。そんなこともあって、祈りの場所たる寺院内はそれなりに静かだが、視覚的には騒々しすぎる。ロックを聴きながら文章を書いているようなもので(今の私の状態)、こんな環境では本来祈りには適さないだろう。キリスト本人がここに来れば、どこかもっと落ち着ける場所に早々立ち去ってしまうに違いない。
といったわけであまり感心しなかったサン・ピエトロ寺院を後にして再びローマ市内へと向かう。よく見かける光景だが、道端でカップルがイチャついている。背もたれのないベンチをまたぐように向かい合って座り、チュッチュチュッチュ、イチャイチャベチャベチャしている。そのぐらいの表現では足りなくて、本当はグチャグチャしている。グチャイチャイチャグチャしながらそのままなにかを始めちゃいそうな勢いで、それを通行人のすぐ横でやっているから、凄いなあと思う。凄いなあとは思うが感心はしない。なんだよオイ、と言いたくなるが、もちろん言わない。言っても分からないだろうから言っても構わないかも知れないが、言う必要もないので言わない。てなことを思いながら通りすぎる。
ローマ市内に戻って、以前に見ていないところを見て回った。例の有名なマンホールの蓋、『真実の口』にも行ってみたが、実にどうってことない。観光客には大人気で、手を突っ込んだ状態で写真を撮る人多数だが、もちろん1人で手を突っ込んで喜ぶ馬鹿もいないので、私はそのまま眺めて立ち去った。
まだ見ていないところはないかと歩いていたが、たいしたものは残っていなかった。気が付けば再びフォロ・ロマーノやヴィットリアーノが見える。ああ、我がイタリア観光も終わりぬ。フランス人の鬼マダムに責められて始まり、韓国人スチュワーデスに冷たくされ、白タクあんちゃんとヤクザなホテルにぼったくられ、ジプシーに襲われ、インドネシア人と間違われ、可愛い女の子達にしばしポーッとしつつ、激しいばあさん達にいたぶられ、レストランで疑われて、それでも最後は平和にローマにたどり着いた。あとは日本へ帰るだけだ。
「海外に行くと、価値観が変わる」
と、出発前に言われたが、確かに日本のことを見直すきっかけになった。方向を見失った現代日本文化の不毛性を感じたし、西洋的価値観からすると日本がいかに変な国に見えるかがよく分かった気がする。イタリア美人は確かに綺麗だが、やはり私は日本の女の子達(女性全般とは言えない)が好きだということを再認識もした。日本人がいかに西洋化したとはいえ、まだまだ精神性を重んじる文化が染みついているのだなあという事を、西洋文化の唯物性というものを知ることではっきり認識することもできた。一方では日本の街の汚さ、猥雑さ、そして人々の公共心の低さに情けない思いを抱いた。
「日本人は“美しさ”に対して繊細だが、“醜さ”に対して鈍感だ」
というようなことを言った外国人がいたらしいが、全くその通りで、誇れる部分と恥ずかしい部分とを併せ持ったこの国はいったいなんなのだろうかととても不思議になる。「ここが変だよ」と言われるだけのことはあるのかなとは思う。もっとも、日本人の持つある種のマイナーな価値観こそ優れていて、それをこそ世界に拡げるべきなのだと思う部分も少なくはない。結局のところ、日本人は相対的に見ればそれほど悪くはないなと思ったのである。それがこの『イタリア失業旅行』を経験しての結論と言えば結論だが、別に無理に結論を出す必要もない。まあ、疲れたし、随分金も使っちゃったが、良い経験であったとは言えるだろう。
そういえばもう一つ結論。
「イタリアで外食ばかりをしていると、いかに歩き回ったとしても、きっと太って帰ってくる」
イタリア失業旅行記 完結
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イタリア失業旅行記 〜その14 世界一の神殿〜
http://kobushi.exblog.jp/29355333/
2021-01-01T18:32:00+09:00
2021-01-01T18:32:14+09:00
2021-01-01T18:32:14+09:00
onikobu
絵雑記
この日の目的地はパエストゥムというところだ。世界一美しいギリシャ神殿があるというので行くことにしたが、なかなか容易にはたどり着けないところだった。まずはこの日の朝にさかのぼる。
ポンペイで迎えた朝。割と早いうちにホテルを出て、私鉄の駅へ向かった。それにしても野良犬の多いことよ。歩きながら360度を見回せば、視界のどこかに必ず野良犬がいる、というぐらいの数だ。日本じゃ今や野良犬なんて目にすることはほとんどないし、私の年代だと子供時代であってもこれほどの野良犬を一度に目にした経験はないので、なんとも妙な光景に映る。行政がなってないのか、それとも野良犬も野良猫同様に野放しにしているのが当たり前という感覚なのか、理由はわからないけれど、こんなところにもお国柄の違いが感じられる。
パエストゥムへ向かうためにはサレルノというところで乗り換えなければならない。サレルノへはナポリから行く。というわけで、ここポンペイからナポリへ行く電車を待っていたのだが、実はポンペイから直接サレルノへ行く電車があることがわかった。しかし後の祭り。私鉄のチケットも買ってしまったし、ナポリ経由でも結局は同じ電車に乗ることになるようなので、とりあえずはナポリへ行って重いリュックを預けてしまおう、と考えたのが間違いだった。来た時は快速か何かだったのだが、この日のナポリ行き電車は各駅停車。予想外に時間を要して、結局ねらっていたサレルノ行き電車には乗れなかった。次のサレルノ行き電車の発車までにはまだまだ時間がある。本当に驚くほどに時間がある。仕方がないので先に宿探しをした。この晩はナポリ泊なのである。
ところで、ポンペイからナポリへ向かう電車でこんなことがあった。この電車、対面した4人掛けのブロックが単位になっているのだが、その向かい合った椅子の距離がとても近い。膝と膝がぶつかるぐらいの近さだ。また、椅子の幅も狭くて隣の席とも密接しているから、膝の前や股の間に荷物を置くようなことは出来ない。網棚も無いか狭かったかで、パンパンに膨らんだリュックを上げることはできなかった。というわけで、とりあえず空いていた隣の席の上にリュックを置いておいた。私は普通ならよっぽど空いている時以外は荷物を横の席に置いたりはしない。他の乗客が座れないでいるのに荷物を置きっぱなしにしているような輩が大嫌いなタチだが、このときばかりは膝に抱えるレベルの荷物では無いために、仕方なく置いておいた。乗ってしばらくはよかったのだが、ナポリに近づくにつれ車両内が混んできた。普段ならここで荷物を抱えるか下に置くかするところだが、その余地はなかった。そのうちにどんどん空いた席が埋まって行き、最後に荷物のある隣の席だけが残った。さて、どうしたもんだろうと迷ってる所へ1人の老婦人がやってきた。この老婦人、実は老婦人というよりはバーサンである。ポンペイの物売りバーサンとはタイプの違ったバーサンだが、やはりこの私に“バーサン”と言わしめるだけのキャラクターを持ったバーサンである。
このバーサン、荷物が置いてある椅子を見て何やらわめいた。イタリア語なのでもちろん何を言っているのか分からないのだが、おそらくはこんなことだろうと察せられる。以下推測。
「なんだってこんなとこに荷物を置いてあんだい! まったく非常識だねあんた! 年寄りが立ってんだからとっとと荷物をどかさないかい! まったく近ごろの若いインドネシア人ときたら!」
ちなみに私はインドネシア人には普通見えないと思う。バーサンがこの最後のくだりを発言した可能性はおそらく0.1%以下だと思うので念のため。とにかく、私はその剣幕に押されてあわててリュックをどかし、前へ置こうか、何とか上にあげようかと試みたがかなわず、結局重い重いリュックを膝の上に抱えることになった。まあ、背負って歩いているものだから、実のところどうしても抱えられないという程の重さでもない。こんなことならもうちょっと早めに抱え込んでいればよかった。そうすればあんなバーサンにいじめられることもなかったのだ。
とにかくこのバーサン、あまり性格がよろしくない。私がリュックをどけた後も、なんやかんやと周りの乗客にむかって大声でわめいている。以下推測。
「まったく、なんだってこんな世知辛い世の中になっちまったんだい! いい若いインドネシア男が年寄りに席も譲らず、何を言っても答えやしない! 長生きなんてするんじゃなかった! ああ、ワタシャとっとと死んじまいたい!」
ホントにこんなことを言ってるんだろうなあと想像しながら眺めていた。何を言われているのか分からないので弁解することも出来ず(日本語で言われたとしても弁解はしていなかっただろうとは思うが)、周囲の乗客の視線を痛く感じながらどんな顔をしていればいいのかも分からずに、しょうがないから「もう知らない」ってな顔でシレッとしていた。このバーサン、どうも性格がネガティブなようで、なんだか態度が怒りに満ちている。生きる基本姿勢が不平不満というタイプらしい。気持ちが収まらないのか何か知らないが、席に座っても延々と話し続けている。話の相手をさせられていたのが、たまたまバーサンの向かいに座っていたおばさん。初対面であろうこのおばさんに向かって、どうやらバーサンは身の上話を始めたらしい。最初は激しかった口調が、だんだんとしんみりしだして、最後にはなんとおばさんが涙を流した。
「おばあさん、苦労されたのねえ…」
なんてことを言っている様子。ちょっとうがち過ぎかも知れないが、短時間のうちに見知らぬ人間に涙を流させたことにこのバーサンがとても満足していると、私には感じられなくもなかった。イタリアのバーサンはなんだか凄い。
さて、話をもとに戻す。ナポリで宿を決め、大きな荷物を置いてきたものの、まだまだ時間がある。それまで国立考古学博物館でも見ていようかと思ったが、まずは両替の必要があったので駅へ向かった。たまたま見ると、12時15分発サレルノ行きという電車がある。各停なのか、乗車時間は長いようだが、13時10分発の電車よりは少し早く着く。急遽博物館に行くのをやめて電車に乗りこんだ。しかし、これぞイタリアなんだが、予定時刻になっても全く動く気配がない。そのうち20分が過ぎた。当たり前のように発車しない。これなら13時10分発の電車の方が結局早く着くということでそちらに移動した。こんなことなら博物館に行っておくんだったと後悔しても今更しょうがない。
1時間ほどでサレルノへ着いた。ここで乗り換えて目的地のパエストゥムへと思ったら、なんと次のパエストゥム行き電車が出るのは3時間後。なんだそりゃ。到着時刻は6時だ。そんな時間にむこうに着いて、はたして帰って来れるのか。甚だ怪しい。というわけで色々調べてみると、どうも電車は途中のBattiなんたらという駅で分かれているようだ。そこまで行く電車はもう少し頻繁にあるので、とりあえずそのBattiなんたらまで行ってみることにした。きっとそこでパエストゥム行きの電車が来るだろう。と、やって来たけれど、結局他のパエストゥム行き電車はなかった。なんたるド田舎か。仕方がないからタクシーで行こうと思ったら、タクシーも無い。あちゃー、もう帰っちゃおうか。半分あきらめかけたが思いとどまった。長時間かけてここまでたどり着いたのに、これで引き返したら1日が無駄になる。ここはグッと踏ん張って、とりあえずトイレへ行こう(トイレでグッと踏ん張るという意味ではない)。なにか状況が変わるかも知れない。
トイレから出てくるとタクシーが出現していた。良い展開だ。近づいて行って女性の運ちゃんに話しかけた。
「トゥー、パエストゥム」
一応通じた様子だが、今一つ彼女には確信が持てなかったようだ。彼女はメモ用紙を取り出してそこに何やら書き出した。見ると下手クソな神殿の絵だった。私は「イエスイエス」と答えて値段の交渉に入った。初日の晩、白タク暴走あんちゃんの苦い思い出がある。料金の交渉は事前にきっちり済ましておかなくてはならない。距離はどのくらいか知らないが、40000リラだと言う。ちゃんとした正規のタクシーだし、きっとボッタクられてはいないんだろうと判断して了承した。
そこそこの距離を走って、遺跡に着いた。そういや、このタクシーでは後部座席に座った。タクシーだから当たり前なのだが、あの晩の白タクでは助手席に座らされた。思うに、白タクだということがバレにくいように助手席に座らせたのだろう。知り合い同士が2人で車に乗る場合、同乗者は助手席に座るのが自然だ。ただの狼藉野郎だと思っていたが、そんなことにも意外と気を遣っていた暴走あんちゃんだったんだなと気がついた。まあ、単なる悪知恵には過ぎないが。
神殿はだだっ広い野っ原にあった。一応遺跡公園ということになっているらしい。安い入園料をとられた。
「あれえ、これだけえ?」
決して世界一美しくはない。かなり崩れているし、周囲にはなにもない。ただポツーンと赤茶けたみすぼらしい神殿が置いてある感じだ。これは果たして40000リラ払ってまで来た価値があるものなのか。
「だまされたか!」
そう思ってトボトボ公園内を歩いていると、遠くの方に何かが見える。もう一つ神殿があった。
こちらが本命だった。なるほど、近づけば確かに立派な神殿には違いない。2500年前の遺跡だから、随分傷んでいたものを一生懸命修復したものだろうと推測するが、まさに典型的なギリシャ神殿だ。簡単に言うと、柱ばっかり。昔はカラフルだったようだが、今は見る影も無い。だが、建物の状態としては確かにギリシャのパルテノン神殿なんかよりしっかりしているようにも思う(あちらの神殿は生で見たことはないけれど)。建物だけで見てみると、世界一美しいと言う人がいるのもわからないではない。神殿のほかにバジリカというパエストゥム最古の建物もあって、この2つを見ているのはなかなか楽しいし感動的だが、しかし、その割にはここは知名度が低過ぎる。パルテノンに比べたらほとんど無名といっていいだろう。なぜだろう。思うにロケーションが悪いのだ。あちらは首都アテネのアクロポリスの丘の上という絶好の立地だが、こちらは電車もめったに走らぬド田舎の野っ原のまん中。神殿の周囲には街の遺構も残っているが、ほとんどは基礎部分のみで、あとは草っ原である。殺風景で絵にならないこと甚だしい。どうしてこんなところに建てちゃったかなというような所だと言っていいだろう。パルテノンは白くて強い日差しに映えるけれど、こちらの神殿は赤茶けている。周りの緑がまた不釣り合いに感じられる上、やたらとトカゲも這い回っている。というわけで、『地球の歩き方』には“世界一美しいギリシャ神殿”とあったけれど、実際にそうだと納得する人はきっと少ない。でもまあ、なかなか感動的ではある。来て損したとは思わない。無名かつ交通の便が悪いために観光客もとっても少ないし、のんびりじっくり見るにはいい。立派な博物館もある。知る人ぞ知る穴場と言えるだろう。
ナポリへの帰りの電車はなんとか30分ぐらいの待ち時間で乗ることができた。しかし駅を探すのには随分苦労した。バールで2回も道を尋ね、さんざん歩いてようやくたどり着いてみれば、駅にいたのは日本人の新婚カップルのみ。異国の地の駅のホームで、日本人3人だけが電車を待っているのだから、この土地がどれほどの田舎か分かるというものだ。ナポリ行き最終電車は予定時刻より1時間ほども遅れて到着した。イタリアの鉄道のいい加減さにはすっかり慣れて、この頃にはあきれることもなくなってしまった。
明日はいよいよローマへ戻る。
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イタリア失業旅行記 〜その13 ポンペイの悲劇〜
http://kobushi.exblog.jp/29355329/
2021-01-01T18:29:00+09:00
2021-01-01T18:29:37+09:00
2021-01-01T18:29:37+09:00
onikobu
絵雑記
ポンペイは悲劇の土地である。今から二千年近く前、紀元79年8月24日正午を少し過ぎた頃にベスビオ火山が大噴火を起こして、ポンペイを含む周辺の都市は火山れきや火山灰によって6mもの厚さで覆い尽くされてしまった。他の町が再び町造りを始めたのに対して、ポンペイだけはその後一度も復興のつち音が聞かれる事がなかった。そのために我々は当時の貴重な遺跡を目の当たりにする事が出来るのだが、ポンペイがうち捨てられたままであったのは、人々がその土地に取り憑いた魔力に恐怖を抱いていたからだとも言われる。確かにこの町には魔物が住んでいるのかも知れない。
バーリからナポリを経由してポンペイの町へ着いたのがその日の午後3時だった。咽が渇いていた私は駅前の露店で生ジュースを飲んだ。オレンジだったかグレープフルーツだったか忘れたが、その場で果実から搾り出してくれるジュースはたまらなく美味しい。しかし、既にこの時から魔物は私にちょっかいを出し始めていたようだ。元気を付けたところでまずは宿探しをしようと歩き始めるが、どうも様子が怪しい。町の様子が非常に殺風景だ。付近にはホテルなど見当たらない。話が違うなあと思いながら『地球の歩き方』をもう一度よく見てみると、ホテルがあるのは町の反対側の駅だったようだ。私のせいではない。『地球の歩き方』の書き方が悪いのだとなんだかムシャクシャしながら歩いた。その日は晴れだが寒いぐらいの気温だったようで(そう日記に書いてあるが記憶には無い)暑さで参っていたということはないのだが、それでも重いリュックを背負ってエッチラオッチラ歩くことに辟易していた。早いとこホテルに荷物を置いて身軽になりたかった。そんなわけで思いの外長い距離を歩くことにイライラしているところへ、通り掛かりの車からどうも人をからかっている風の声を浴びせられたりして、ますます気分が悪くなった。そんな状態でなんとなく集中力もなく歩いていると、ちょっとした交差点で横道から大型バスが現れた。道を渡ろうとしていた私が立ち止まっていると、左折してきたバスの側面が見る見る眼前に迫ってきて危うく轢かれそうになった。
「なんだ、コンチクショウ! 殺す気かあ!」
と、私のイライラは絶頂に達した。しかし、ようやく見つけたホテルは安くて新しくてとても綺麗だったので、私のイライラも少なからず解消された。ほんの束の間ベッドで横になったあと、私は手荷物だけを持って宿を出た。ポンペイの遺跡を見て廻るのだ。既に午後4時に近いので、広大な遺跡を巡るためには急がなくてはならない。
遺跡の入り口に行くと、いくつかの土産物屋があった。そのうちの一つにいたバーサンが日本語で、
「コンニチワ」
と言ったものだから、私は「おっ!?」と足を止めた。まさにバーサンの思うツボにはまった瞬間である。私は年寄りを大事にしない性質ではないつもりなので、老女のことをバーサンとは普通言わない。しかし、このバーサンだけはまさにバーサンであって、誰になだめられようともバーサン以外の呼称では呼べない。ただ、ババアだと少し言い過ぎなので、そのへんはセーブしている。
このバーサンが最初に差し出したものは、日本語版のポンペイ遺跡解説本『ポンペイ 二千年前』(ボネキ・観光出版社)である。イタリアでは日本語で書かれたガイドブックを見ることは少ないし、内容的にもかなり充実しているようなのでこれは積極的に買う気になった。現在手元にあるが(だが未だちゃんと読んだことはない)、アルベルト・カルロ・カルピチェーチさんという方の著作であるこの本は、ミラノにあるらしいスタジオニッポンというところで翻訳・写植・製作されたそうで、資料的にも図版が豊富でしっかりしているし、翻訳された日本語もなかなか上手である。値段的にも特に高くはない。その本を呆気なく買ったので、バーサンは私をオイシイお客と思ったのだろう。続いて安そうなブローチを見せた。それは白い貝殻を彫り込んだ3センチぐらいの大きさのもので、おそらくポンペイの遺跡に関連した女神かなにかの顔をモチーフにしている。正直なところ私にはその価値が全く判らないけれど、パッと見の印象では千円前後だろうと思った。高くてもせいぜい二千円がいいところではないか。そのブローチをこのバーサンが日本語を交えながら本当に一生懸命に説明する。出発前に餞別をくれた以前の会社の女性にもお土産を買わないといけないなと、ちょうど思っていたところでもあり、
「こんなお歳で必死に商売をしているこのおばあさん(このときはまだ“バーサン”ではなくて“おばあさん”だと思っていた)も大変だろうから」
と、多少の同情も感じて「わかった、買う買う」と言ってしまった。いくらかなと思っているところへバーサンの口から出てきた数字は『65』だった。私にはイタリア語による正確な数字の表現が理解できなかった。分かったのは上の数字だけであって、下の0が幾つなのかが分からない。しかし、腑に落ちなかった。6500リラ(約650円)では安過ぎるし、まさか65000リラ(約6500円)では高過ぎる。『65』というのが私の聞き間違えかなあと思いながら財布の中のお札をしばし眺めていると、このバーサン、驚くべき行動に出た。
私の側へ近寄ってきたかと思うと、私が広げていた財布の中から50000リラ札をかっぱらったのである。
「なにー!…ってことは65000リラー!?高い高い、冗談じゃない、やめるやめる!金返せ金を!」
そう言ったものの後の祭りだった。これはちゃんと貝を彫った良いものだから高いんだとバーサンは主張するが、それが本当だとしてもそこまでの金を払うつもりはない。いくらなんでも高過ぎるからやめると言うと、
「じゃあ、50000リラでいい」
とバーサン。奪った金は何があっても返さないという構えだ。その顔が無性に憎たらしく見えた。確かに最初に値段を訊かなかった私が馬鹿だったのだが、それにしてもどうもぼったくられている気がしてならない。とても腹立たしかったが、握りしめられた年寄りの手から力づくで金を奪い取るわけにも行かず、
「この金は絶対に返さん!」
という、バーサンの燃え上がる執念に負けてあきらめることにした。バーサンの言うとおり、あのブローチが本当に良いものであることを願うばかりである。
「クソー、気分が悪い」
そう思いながらチケット売り場へ向かっていると、バーサンが追いかけてきた。先程の必死の形相とは違って、こんどは親切そうな笑顔に満ちている。なんの用かと思っていると、手に持っていた『禁じられたポンペイ』というこれまた日本語の本を私に渡した。
「ははあ、さすがに高いものを無理矢理買わせて悪かったってことで、この本をサービスしようってんだな」
そう思って、引きつりながらも少しは私も微笑みかけたところ、このバーサンの次の言葉にまた驚いた。
「15000リラ」
悪びれた様子もなく、片手を差し出して「金よこせ」のジェスチャーをしている。
「買うかぁ、こんなもん!」
そう言って本を突き返した。まったくタフなバーサンだと感心したが、なんだか気分が悪くてその後の遺跡巡りが楽しくなかった。
とは言っても、さすがにポンペイの遺跡はすごい。二千年前の町がこうして残っているのだ。この遺跡の“生みの親”ならぬ“埋めの親”であるベスビオ火山が思いの外遠くに見える。あんなところで噴火した灰が6mもの厚さで町を覆い尽くしたのだから自然の力は驚くべきものだ。未だ完全に発掘は終了していないというが、ここにある遺跡は実に見事なもので、まさに掘り出し物という感じ。町じゅうの通りは大きな石が敷き詰められているのだが、凹凸が激しくて大変に歩きづらく、普通の倍疲れるという感じだが、これほどの大きな石で全面的に舗装するというその労力に感心する。よく見ると石畳の上に轍が出来ているのが興味深かった。
家の壁には顔料で書かれた文字や絵が残っていて、床にはモザイクタイルによる繊細な模様がしっかりと描かれている。神殿や競技場、円形劇場なども素晴らしいが、ポンペイの遺跡のすごいところは普通の住戸が町並みごと残っていることだろう。二千年前の人々の生活をこれほどリアルに感じられる体験というのはなかなか出来るものではない。
円形劇場というものがあって、または闘技場とも呼ばれるらしいが、ローマのコロッセオより100年も前に作られたものだそうだ。例によって剣闘士の戦いやら猛獣との戦いやらが行われたそうで、染みついた古代のエネルギーがそうさせるのか、そのグランドにいた3人の若者が大声でクイーンの「ウイ・アー・ザ・チャンピオン」を唄っていた。
中央にはアポロ神殿がある。このあたりを歩いていたら、遠足なのか校外学習なのか、小学生の団体がいた。「オハヨー」(夕方なのに)だの「サヨウナラー」だのと日本語をかます子供が何人もいた。意外と日本の挨拶が知られていることに少し驚いた。子供に微笑み返しをしながら構わずそこらの写真を撮っていると、人のカメラの前に直立不動で立ちはだかる連中が何人もいる。子供はどこの国でもカメラの前に立ちたがるものらしい。
子供たちと離れて静かになったと思ったら、前方から妙にうるさい声が聞こえてきた。これは日本のオバチャン連ではなかろうかと思っていたら、赤と緑に包まれた韓国版オバタリアンの団体だった。まだ遥か遠くにいるのにもかかわらず、その騒音たるや凄まじいものがある。やはり日本のオバチャン連では太刀打ちできない迫力だ。こういう場所で過去に思いをはせているところにああいう団体がやってくると、興醒めすること甚だしい。中国人の団体であるとさらに猛烈な場合が多いが、国民性だから仕方ないのか。
さて、あまり楽しい気分ではないながらも遺跡をひとまわり見終わって、クタクタの体で再びホテルへ辿り着いた。財布の中身を見て、「これっぽっちになっちまった」とバーサンを恨んでみたが始まらない。少し休んでから食事をしにまた町へ出た。しばらく歩いてから一件のトラットリアへ入った。手ごろなツーリストメニューがあったのでそれを食べて、最後に美味しいカプチーノを飲んで少しは疲れが取れたようだった。酒が入ったせいか先程までのイライラもなんとか薄らいで良い気分になった。それでは勘定を払って帰ろうか、と思って驚いた。
「財布がない」
ホテルを出る前に財布の中身を確かめた時、そのまま財布をベッドの上へ置いてきてしまったのだ。しかしクレジットカードだけは持ってきていた。カードが使えるかどうか取りあえず訊いてみよう。店員さんにカードを差し出してみると、即座に「カードはダメだ」と言われた。ダメだと言われたならしょうがない、正直に話すしかない。ホテルに財布を置いてきてしまったことを何とか英語で説明すると、その店員は驚いた顔をして店の奥に引っ込んで行った。困ったなあと思いながらも、そんな状況をちょっと楽しみながら待っていると、店の奥から4人ぐらいがゾロゾロとやって来た。すっかり私の周りを取り囲み、
「カードはダメだ、現金で払え」
と攻め立てる。ホテルに財布を置いてきたことをもう一度説明すると、
「どこのホテルだ?」
と訊く。まずいことに私はホテルの名前を全く覚えていなかった。
「名前は覚えていない。あっちのほうのすぐ近くのホテルだ」
そう答えると、彼らの表情はすっかり険しくなった。明らかに私の言うことを信じていない様子である。そりゃそうだろう、我ながらいかにも行き当たりばったりのウソのように聞こえる。
「金もないのに飯を食って適当な言い逃れをしているこのゴロツキ東洋人め!」
そう思われているに違いない。1人だけ見張りを残して彼らはまた店の奥へ消えた。皆で対応を話し合っているようだ。私はしばらく待っていたが話し合いはうまくまとまらないようで、いつまでたっても皆はやってこない。これ以上待っていても仕方がなさそうなので、私は立ち上がって彼らのもとへ行った。険悪な表情でもめている彼らに向かって私は言った。
「一緒にホテルまで行ってくれないか」
私の言っていることがデタラメだと思っている彼らは、その言葉を聞いて戸惑ったようだ。多少は信じているのかも知れないが、半分以上はそれが私の逃亡するための口実だと思っていただろう。私は人相的には悪人顔ではないはずで、誠実さがにじみ出ているに違いないのだが、そこは見知らぬ東洋人だし、言っていることがいかにもうさん臭いので信用しろと言うほうが確かに無理がある。彼らは少しの間またゴニョゴニョと話し合った結果、1人の男性を選び出した。一番しっかりした人物が私とともに行くことになったようだ。
その男性と連れ立って歩いていると、思いの外ホテルは遠かった。
「ホテルはどこだ?」
しびれを切らして男性が訊いた。その顔には「ほれ見ろ、やっぱりウソだ」と言いたげな冷笑が混じっている。「もう少し」と言ってそのまましばらく歩くとようやくホテルにたどり着いた。ホテルに入ると、険しい表情の男性に、いったい何事かとフロントの男性が尋ねている様子だった。なにやら会話する2人を気にしながらも部屋へ駆け込んだ私は、すぐに財布を持ってフロントへ戻った。私が本当に財布を持って戻ったことに店の男性は少し驚いた様子だった。食事は20000リラの料金だったが、迷惑をかけたので私はお詫びをしながら25000リラを差し出した。しかし彼は20000リラだけを受け取ると、盛んに謝る私に握手を求め、さわやかな笑顔を残して軽やかな足取りで帰って行った。
翌朝、ホテルを発とうとした時にカードで支払おうとしたら認証に随分と時間をとられた。あんなことがあったのでホテルの人間にもすっかり疑われているのかなと思った。ついてないと言えばついていない出来事で少しハラハラはしたものの、なかなか面白い体験ではあった。
魔物が住むポンペイではあまり良いことは起こらなかったけれど、おかげで最も印象に残っている町でもある。
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明けましておめでとうございます
http://kobushi.exblog.jp/29353047/
2021-01-01T01:12:00+09:00
2021-01-01T01:12:39+09:00
2021-01-01T01:12:39+09:00
onikobu
絵雑記
新年早々闘牛士が跳ね飛ばされて縁起でも無さそうではありますが、今年は丑年ですので、あくまで牛目線で見れば、己を殺しにかかっている敵をやっつけるという縁起の良い絵になっております。
というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。
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イタリア失業旅行記 〜その12 アルベロベッロの幸せ〜
http://kobushi.exblog.jp/29352462/
2020-12-31T19:51:00+09:00
2020-12-31T19:53:00+09:00
2020-12-31T19:51:17+09:00
onikobu
絵雑記
バーリから私鉄に乗って、ブドウ畑やお花畑(自生してるだけだと思うが、季節が良かったのかあちこちでよく見かける。この私に花の種類が分かるわけもないので、要するに“なんの花畑”というやつ。かなりきれい)を眺めながらのんびりしていると、アルベロベッロの駅へ着く(実はのんびりばかりではなくて、途中の駅で下ろされてバスに乗り換えさせられたりしながら、よく分からないままにやっとこさ着いたという感じだった)。それにしてもイタリアの郊外の風景というのは本当にのどかで美しい。町を少し離れるとどこにでもこんな風景がひろがっているのだから、実にうらやましい限りだ。
アルベロベッロは、それまで廻った山岳都市とは趣が大きく異なる。そもそも山岳都市なのかという気もするが、例の『イタリア中世の山岳都市』(竹内裕二著 彰国社)にはちゃんと山岳都市として載っているので、きっとそうなんだろう。
ここは、知る人ぞ知る“トゥルッリ”の町である。単数形だと“トゥルッロ”。とんがり帽子のような円錐形の屋根を持つ、白い外壁のかわいい家のことだ。壁の構造は石積みで、内外とも白石灰を塗ってある。屋根も厚さ4センチの平らな石を積み上げたものだ。屋根のてっぺんには、“カゼッレ”と呼ばれる装飾がつけられている。よく見るといろんな形があって、魔除けや占星術的なおまじないの意味合いを持っているそうである。この住居形態は、中近東からギリシャを渡って伝わってきたとも考えられているらしいが、はっきりした起源は不明とのこと。石器時代の住居と同様、トゥルッロも円形プランの集まりで構成されていて、石器時代からの流れがそのまま存続されてきた形だろうとも言われているそうだ。
おとぎ話の家のようだとかムーミン谷みたいだ(ドーミン谷じゃない)などと、『地球の歩き方』にも感想が述べられているが、確かに見たことのない風景で、世界中でここだけにしかない町並みだろう。だが、町を歩いてみると、驚くほどに観光地化が進んでいた。トゥルッリの半分は土産物屋である。店の人が座っていて、あまり感じの良くない目つきで眺めるので、なんだか落ち着かない。ゆっくり見て廻りたいが、どこへ行っても静かに見つめられるので、どうもいたたまれなくて自然と足早になってしまう。このままではとっとと町を出ることになって、時間が大量に余ってしまいそうなので、トゥルッロのミニチュアを製造販売しているお店に入ってみることにした。そこでは、単なる土産物作りには留まらず、もはや職人と化したおじさんが一人、こつこつと小石を積み上げていた。店内には大小様々な縮尺のミニチュアが並んでいたが、結構いい値段がつけられている。大きいほうが出来は格段に良いが、値段はともかく、かさばる上に重いので、泣く泣く小さいのを一つだけ買った。手のひらに乗るぐらいの大きさで、小石の比率もかなりスケールアウトしているが、それでも20,000リラ(約2,000円)もした。小石を接着剤で貼り付けた細工なので、日本へ帰るまでに壊れる心配があったが、家で開けてみると案の定壊れていた(すぐに直せた)。
昼になったので、飯を食わねばと周りを見回してみると、谷を挟んだ向こう側にもトゥルッリゾーンが広がっていることに気付いた。まずはBARでビール、ハンバーガー、カプチーノにアイスを食して腹を満たしてから、そのゾーンへ入ってみた。するとここは普通の家ばかりで店がない。観光客もあまりいないので、こりゃいいやと思って写真を撮りまくっていると、シエスタで帰ってきたのか、前を歩いている姉妹らしき二人の女の子を見つけた。小学校4年生と2年生といったところだろうか。そのまま自然に追いついていくと、小さいほうの女の子が振り向いて、ものすごく人懐っこい笑顔でニコッと笑うと、
「ボンジョールノ! チャオ!」
と挨拶をしてくれた。私ももちろん笑って「ボンジョルノ」と返したが、そのあまりの可愛らしさに私は倒れそうになった。
その後、えらい幸せ気分のまま再び一人で町を歩いていたが、あの子の笑顔が忘れられず、もう一度会って写真を撮ろうと思い、先程別れた彼女の家の辺りへ行ってみた。だが、見当たらない。家の中へ入っちゃったかなあと思っていると、別の家の前でお爺さんとしゃべっている女の子が一人。あの子だ。そこは地流しになっていて、女の子はその水場でペットボトルに水を汲んでいた。水を汲み終わると女の子はこっちへ向かって走ってきた。私を見つけると、また「チャオ!」とニコニコ笑って、そのまま駆けていった。
写真を撮る間もなく、再び生き別れになった。もう一回来た時こそ写真を撮ろうと思って待っていると、思惑通り女の子が戻ってきた。走りながらまた「チャオ!」と言って私の前を通り過ぎようとしたが、そのままちょっと待った、のジェスチャーをして立ち止まってもらった。写真を撮らせてくれと、これもジェスチャーで伝えると、女の子は笑顔で写真に収まってくれた。私は「グラッツィエ」とお礼を言うと、満足して立ち去った。立ち去る時、女の子が遠くの方でニコニコ笑いながら手を振って(正確には手を開いたり閉じたりを繰り返す仕草)別れの挨拶をしてくれたので、私も同じ仕草を真似て返した。その後、ウキウキの非常に嬉しい気分で歩いていたが、なにか記念にあげればよかったなあと後悔し始めた。そうだ、10円玉でもあげればよかったのだ(せこい)。どうしてそれに気がつかなかったのか。もう一度会う機会があればその時にはあげようと思ったが、結局そんな機会はないままにバーリへ戻る電車に乗ってしまった。
席に着くと、斜め前の席(斜め前のコンパートメントの向こう側、こっち向き。言い換えるなら、私の席から通路を挟んだ隣の二人掛けの席の向かいの席の背中合わせの席の向かい側の席)にブロンドのえらい美少女が座っているのに気付いた。歳の頃は17,8で、おそらく女子高生だろう。いやあ、綺麗なもんだなあと感心していると、向こうもこちらを興味深げに見ている様子。その娘と向かい合って座っている友達の女の子もわざわざ振り返ってこっちをチラチラ見ている(えーと、そのお友達の席を説明すると、私の席から通路を挟んだ隣の二人掛けの席の向かいの席の背中合わせの席)。こんな田舎だから東洋人が珍しいのかな、なんてことを考えていた。
そのうち車掌が廻ってきた。私の切符(バーリで買った往復切符)を見ると何やらイタリア語で色々と話しかけてきた。バーリがどうのと言っているようだが、もちろん全く理解できない。イタリア語は分かるかと訊かれたようなので、「ノー」と言って困ったような表情をしてみると、まあいいまあいい、気にするなといったそぶりをしてそのまま行ってしまった。なにかとても気になるが、分からないものはしょうがない。やや呆然とした表情でいると、例の斜め前の女の子が「excuse me!」と声を掛けてきた。ブロンド娘のお友達のほうで、こちらは黒っぽい髪で、なおかつ美少女という事でもない。「英語は話せますか」と訊くので、「少し」と答えると、ニコッと笑って二人そろって私の前の席に移動してきた。これには驚いたが、えらく嬉しかった。ブロンドの娘はちょっとすました感じで一言も話さないが(英語が苦手なのかも知れない)、お友達の方は人懐っこくよく笑う。その娘が、「さっきの車掌の言った事はわかりましたか?」と訊くので、「ノー」と答えると、
「どうやらバーリには二つの違う駅があって、この電車だとあなたが乗ってきた駅には帰らないよ、と言っていたようです」
と教えてくれた。
そんなこと言われてもどうすりゃいいかわからない。そもそも電車の本数が少なくて、おまけにえらく遅れてきた電車にやっと乗ったのだから、とりあえず同じ街の中に着くならいいと、納得顔をしてみせた。彼女が「どこから来たんですか」と訊くので「日本です」と答えたが、きっとよく知らないだろうなあと思って、「日本の事を何か知ってますか?」と尋ねると、
「それはとても難しい質問です!」
と笑いながらも力強く答えた。寂しい事を言うなあと思ったが、先程の教訓を思い出し、ここぞとばかりに日本の小銭を取り出して見せた。10円玉と1円玉の概ねの価値を説明してから、それを二人にあげた。5円玉を見せたら穴を面白がっていたのに、どういうわけかこれはあげなかった。
「イタリアは好きですか?」
と訊かれたので、もちろん「はい」と答えたが、本当のところはそんなに簡単なものでもない。
「あなた達のように親切な人に会えたときはとても好きです」
と言いたかったが、我が乏しい英語力がそれを阻んだ。そのぐらい言えよという感じだが、シドロモドロになるのが格好悪いし面倒臭かったのである。
せっかくの優しく明るいお嬢さんとメチャメチャ美しいお嬢さんなので、これも写真を撮らせてもらおうと思っていたら、二人は次の駅でとっとと降りていってしまった。とてつもなく残念だった。しかし、彼女たちも今日ぐらいは日本のことを調べる気になっただろう。そのうち海外旅行で日本を訪ねてくれたらとても嬉しいなあとつくづく思った。
アルベロベッロは幸せの町、そしてトゥルッリは幸福のとんがり帽子であった。
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イタリア失業旅行記 〜その11 ヴェニスだす〜
http://kobushi.exblog.jp/29352448/
2020-12-31T19:44:00+09:00
2020-12-31T19:47:26+09:00
2020-12-31T19:44:46+09:00
onikobu
絵雑記
〜旧HP モーレツパンチ!! 『出不精が行く!!』より(2003年の記事)〜
うまいタイトルが付けられなくなってきた。訪ねた街を大ちゃん風に言ってみただけだす。
ボルツァーノからヴェニスに来るまで電車に何時間か乗っていたけれど、1時間ほどコンパートメントが一緒だった二人組のご夫人方は想像を絶するようなおしゃべりで、たとえるなら宮川大助・花子ならぬ宮川花子・花子といった状態。全く誇張無しで、1時間の間に5秒と会話が途切れる事は無かった。もちろん大声である。大阪人とイタリア人が似ていると言われるわけも良くわかる。
というわけで、水の都ヴェニス=ヴェネツィアに来たが、どうしてヴェニスとも呼ばれるのかといったことを割と知らない人も多いだろうから調べてみると、ヴェニスはヴェネツィアの英語名である。以上。
街全体がテーマパークみたいなところなので、その観光客の多さといったらこれまで訪れた街の中ではピカ一である。“ピカ一”は“ぴかあ”ではなくて“ぴかいち”なので念のため。
この街には車が無い。車道の代わりに水路が走っていて、交通手段は船だけである。現代の世界にあって、こんなユニークな街も他にはないだろうから大観光都市になるのも当然だが、ここは面白いばかりではなくてとても美しい。水路の水は淀んで汚く、また、蚊が多いのにはまいったが、それでも歴史的な建造物の宝庫で、周辺の島々にもちょっと見飽きてしまうほどの数の寺院が建ち並んでいて、なんとも現実離れした光景だ。私は実際見飽きてしまって、もうどうでもいいという感じだったが、それでもやはりここは夢のような空間なので、特に日本の新婚カップルなんかが多くいるのは致し方ないと思った。別に仕方ないと否定的に思う必要もないが、ただ、ちょっとミーハーっぽいという感じはある。とはいっても、イタリアまで来たならここへ来ないのはやっぱりもったいないとは思う。
世界中からやって来ている観光客の数にはさすがにうんざりするが、大観光地なので店が多くて物を買うには良い。私はここでお土産をまとめて買い、また、イタリアへ来てから初めてアイスクリームを食べた。いわゆるイタリアン・ジェラートというやつで、確かにうまい。しかも安い。もしもそこにアイス好きの妻が一緒にいたとすれば何度も食わされたことだろうが、私自身はべつにアイス好きというわけでもないので、これが最初で最後のイタリアン・ジェラートになった。
中心のサン・マルコ広場に来ると、またまた人だらけだ。おまけに鳩だらけでもある。見渡す限り、人、人、鳩。人、鳩、鳩。鳩、人、鳩。という感じ。見渡す限りというのはちょっと嘘である。サン・マルコ寺院も豪華な建物だ。ゴンドラも何もかも、ここはとても華やかである。ただ、その華やかさ、美しさというのがいかにも西洋的なわかりやすい美だなあと改めて思った。日本人の静かなる美意識の深さを再認識させられる。
さて、大変面白いところではあったが、さほど書く事はない。というわけで、話が尽きた。仕方ないので、次の日の分まで書こう。
次なる目的地はアルベロベッロという街だ。そこへ行くためにはまずバーリという街へ行かなければならない。だが、バーリはヴェニスからは数百キロも南にある。ブーツ型をしたイタリア半島の臀部にあるのがヴェニスだとすると(ブーツに普通尻はないが、イタリア全体を下半身だと見立てた場合の話)、バーリはかかとにある。要するに翌日は丸一日電車に乗っているだけの完全移動日だった。
ヴェニスの宿で蚊に刺されまくり、全身を掻きむしりながら電車に乗り込んだ。向こうの電車はだいたいそうだが、コンパートメントは4人掛けの完全な個室状で、見知らぬ人と向かい合いながら長時間を過ごす。私の場合、日本人同士だったとしてもたいして話はしないだろうが、イタリア人と一緒になればなおさらダンマリである。途中で何回か乗客は入れ替わったが、多くの時間を伴にしたのはバルバラという名の赤ん坊を連れた若い夫婦だった。もちろんその子の名前は私が尋ねたわけではなくて、夫婦の会話の中で聞き取ったものだ。
バルバラは私の服をあちこち引っ張った。その度に母親は「バルバラ!」といって赤ん坊の手を引き離そうとする。バルバラと私の目が合って私は微笑む。父親は物静かで優しそうだ。イタリア人が皆両手を拡げながら声を張って話しているわけではない。特にこの男性はシャイなようだ。母親の方が元気が良い。バルバラは可愛かったが、数時間も一緒にいるにはちょっとうるさかった。まあ、元気な赤ん坊なのでしょうがない。
辿り着いたバーリという街は、大都会だが観光客にとっては特に何があるというところではない。多少の歴史的建造物もあるようだが、わざわざそれを目当てにやって来る人はそうそういないだろう。普通の人々が普通に生活をしている街、といったところだ。大観光地のヴェニスからやってきただけに、そのギャップが激しくて少し寂しい気分になった。おまけに日曜の夜に着いたせいか、駅前のレストランが全て閉まりきっていた。仕方がないので駅の中のセルフサービスの店で食事をとったが、それが寂しさに拍車をかける。明日は4万リラぐらい出して豪華な食事をしようと心に決めた私だった。
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『チーム・くさったまんじゅう』プロフィール
http://kobushi.exblog.jp/29343413/
2020-12-24T21:35:00+09:00
2020-12-24T21:35:09+09:00
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onikobu
雑記
それにしても、よくこんな適当な話を作ったもんだと我ながら少なからず感心しましたので、一部マニアの方が懐かしく喜ぶかも知れないとも思い、当時のプロフィールを載せておきます。
プロフィール
チーム・くさったまんじゅう(Team Kusatta Manju)
宣教師であった祖父イワン・マレンコフスキー(Ivan Malenkovskii)は礼拝の説教でよくこんなことを語っていたという。
「私は饅頭が大好きだ。日本の文化を代表するこの伝統的な菓子は、素朴だが完成されており、そこには付け加えるべき物も取り去るべき物もない。似た風味を持った菓子は他国にもないことはないが、日本の饅頭ほどの深みを備えたものはどこにも見あたらない。私たちの住むこの地球という星はまさに宇宙に浮かんだ饅頭である。しかし、我々の饅頭はまだ完成されていない。それどころかこのままでは地球は腐った饅頭になってしまう。宇宙には想像を絶するほどの数の星が存在しているが、この地球の代わりになる星はどこにもない。この未完成の饅頭を憎しみや欲望で腐らせてはならない。我々はこの星を大宇宙の中で最も輝ける饅頭としなければならない。気が遠くなるほどの太古の昔から、神は愛の皮で包まれたこの饅頭が完成するのを心待ちにしている。神は涎を垂らしながらそれを待っておられるのだ。もうこれ以上神にお預けを食わせ続けるのは止めにしようではないか」
残念ながら、祖父は私が生まれる30年も前に他界してしまった。私はこの話を幾度となく祖母に聞かされて育った。祖母の希望とは裏腹に父も私たち孫の世代もキリスト教に身を委ねることはなかったが、この腐った饅頭の話は印象深く心に刻み込まれている。
『チーム・くさったまんじゅう』は差し当たってはこのホームページを運営することのみを目的として存在しているグループである。我々がこのチームを結成するにあたっては当然ながらもっとポジティブな名称を用いる選択肢があった。だが、様々な検討を加えた結果、我々はこの名称を採用するに至った。名称自体はネガティブに受け取れるが、その背後にある理念は極めて前向きなものである。
『チーム・くさったまんじゅう』はこの地球を腐った饅頭としないために活動する。いつか、地球が腐った饅頭へ至る危機から脱したとき、『チーム・くさったまんじゅう』はその名称を変える。『チーム・くさったまんじゅう』は『チーム・くさったまんじゅう』でなくなるために活動する。
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イタリア失業旅行記 〜その10 北イタリアへ来た〜
http://kobushi.exblog.jp/29343294/
2020-12-24T20:27:00+09:00
2020-12-24T20:27:31+09:00
2020-12-24T20:27:31+09:00
onikobu
絵雑記
そういえば書き忘れていたので書いておくが、といっても実にたいした話ではないが、気になった事なので一応触れておこう。おそらく前の日のどこかの乗り換え駅だったと思う。もしかするとミラノかジェノバかそのあたりだが、私はちょいと大きな用事を済ませたくなった。要するに腰掛けるかしゃがむかしてやることなのだが、有料のところばかりがあるような話を聞いていた割には、そこは無料のトイレだった。
ブースが3つ4つ並んでいた。そのうちの一つへ頭を突っ込んでみると、便器はあれども便座がない。
「壊れてやがる」
普通にそう思った。すかさず隣のブースを覗いてみると、
「ここにもない」
はて、どうしたことか。その隣を見てもやはりない。結局全ての便器に便座がついていないのである。よく分からない状況だ。その便器は明らかに大便用の便器である。外には小用専用の便器が備え付けられているのだから。しかしながら、大便器にはひとつとして便座がない。便座無しでも使えるタイプなのかと思いきや、どう見ても座り心地が悪そうである。やはり便座は必要だろう。見れば、便座を取り付けるべき金具が付いているようにも思える。これは管理が悪いために、盗まれるか破壊されるかした便座をただ補充していないだけということなのだろうか。
状況は今ひとつ理解しがたいが、なんにしても私は用を済ませなければならなかった。そしてやや使いづらそうではあるものの、目の前に据えられているのは確かに大便器である。トイレットペーパーも備え付けられているし、水もちゃんと流れる。もちろんブースの扉には鍵もかかる。しない手はない。
私はトイレットペーパーを2メートルほど引き出すと、それを4つ折りにし、便器の縁に丁寧に載せた。そして、その不安定なトイレットペーパーが落ちないように注意しながら、そっと自分の尻をその上へ置いた。トイレットぺーぺーを間に挟んではいるが、便器は冷たく、その角は堅く痛かった。おまけに体重をかけてくつろぐことができない。体重をかけ過ぎると尻が便器にはまり込んでしまうに違いないからだ。私は半ば“空気イス”のような状態で気張らなくてはならなかった。
「やはりこれは決して便座一体型の便器などではない」
実際に座ってみて、私はその結論に確信を持った。当時は理解できないままだったが、今振り返ってこのトイレの事を考えたとき、ひとつの可能性に思い至った。実はあのトイレは、ある有料システムを採用していたのではないか。小用は無料である。だが大用は基本的に有料なのだ。大きい方がしたい人は窓口へ行って申告する。
「あのう、うんこがしたいのですが」
「100リラ頂きます」
「はい、100リラね」
「確かに。では、これを。使い終わったらそこの返却口へ戻してください。汚したらちゃんと洗ってから返してください」
「わかりました」
「どうぞごゆっくり」
こうして彼は便座を受け取り、ゆったり体重を載せて力むことができるのである。もちろん私のように便座無しでも良いという人は(私は便座が無くても良いと思った訳では決してないけれど)、無料で使用しても構わない。といった、そんな画期的なシステムだったのかも知れない。と、書いてはみたものの、やっぱりいつもの如く本当にそうだとは全く思っていない。
さて、『うんち君…』のネタのようになったが、話を戻そう。いざモンテロッソ・アル・マーレを出発である。小さな駅のホームで電車を待っていると、昨晩私の通訳をしてくれた老婦人とそのご友人が大きなトランクを持ってやってきた。彼女たちとはこの後数時間、電車での移動を伴にしたが、その間に会話らしきこと(私のつたない英語力の故、“会話”と言いきれるほどコミュニケーションはスムーズではないのだ)をして、彼女の旦那が日本に滞在中であるということを知った。
昨晩、鏡の中の自分がイタリア人に見えたのは、酔った上での全くの錯覚とその時には気づいていたけれど、それでもこのとき彼女に言われた一言は意外に過ぎた。曰く、
「あんたはインドネシア人か?」
その時は連日の日差しで程々には日焼けをしていたかもしれないが、それでも南の人々に比べたら私は極めて色白だし、バタ臭い顔とは言われても東南アジア系には普通は見えないはずだ。だが白人から見れば東アジアも東南アジアも同じような全くのアジア人なんだなあと、昨晩の自分がますますアホらしく思えた。それにしても、なぜインドネシア限定なのだ?
さて、急きょ予定を白紙にした私は、次なる目的地をボルツァーノに定めた。オーストリア国境に近いチロル風の雰囲気がある町だ。アルプス山脈の麓である。せっかくここまで北上したのでアルプスも目にしておこうと思ったのだが、着いてみればまだアルプスには遠かった。ドロミテ街道という道をバス旅行するのがお勧めらしいのでそれを目指していたのだが、結局この町に辿り着くために一日中電車に乗っていたので、この日はバス旅行をする時間的余裕がなくなってしまった。バス旅行をしないとなれば、ここへ来た意味は特にない。それほど見どころのある町ではないのだ。綺麗なドイツ風ゴシック建築の教会があったりはするが、それほど大きいところではないから、ぶらついても特に驚くようなものもない。ただ、町並みがこざっぱりとしていて、いわゆるイタリアぽくはない美しさがある。イタリアらしからぬイタリアを体験するには面白いだろうか。ここはイタリア語とドイツ語の両方を使うような町で、看板やレストランのメニューなど、全てが2カ国語で標されている。また、南の方とは確かに民族が全く違うようで、こちらの人々の多くは背が高くブロンドで、いかにも白人然としている。南の方の人々は男性でも背があまり高くはなく日本人とそう変わらないぐらいだし、髪の毛も黒系統が多い。
とりあえず宿を探した。手ごろそうなホテルを見つけてフロントのシニョリーナに英語で話しかけてみたところ、こちらが英語を使えると思い込んだ彼女はあまりにも流ちょうな英語をたたみかけてきたので、何を言っているのやら全く分からなかった。宿の空室を確認するぐらいのことは毎日口に出しているので、最初の決まり文句だけはだんだんうまく話せるようになっていたようである。だから、先方はこちらが英語をちゃんと話すものだと早合点してしまって、躊躇なくペラペラと話しかけてきてしまう。私としてはすっかり困ってしまうのだが、かといって、田舎へ来ると全く英語を話してくれない人も少なくはないから、いずれにしてもなかなか難しいものなのである。
それほど楽しんだわけでもないが、ちょっと今までと趣の変わった町の中で食事をして、それなりにくつろいだ。翌朝、バス旅行に行こうとしたが、全く乗り方がわからなかった。必死になって尋ねまわればきっと分かっただろうが、そこまでの執着がなかったので、とっととあきらめた。なんのためにこの町に来たのか分からなくなってしまったが、そんなことを嘆いていてもしょうがない。カモ類がそこらを歩き回っている、緑にあふれた綺麗な公園のベンチで、地球の歩き方とトーマス・クック時刻表に首っ引きで今後の行き先を悩んでいると、突然頭上から「サヨナラ!」という男性の声が聞こえてきた。顔を上げると太ったイタリアーノ風旅行者が目の前を通り過ぎようとしていた。なんでいきなりサヨナラやねん、と関西風に思いながらも、笑顔で「さようなら」と挨拶を返した。と、そんなことぐらいが印象に残っているボルツァーノである。
結局、突然のひらめきによって、当初は全く訪問の予定のなかったヴェネツィアへ向かうことにした。もはや山岳都市とは全く関係がない。
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イタリア失業旅行記 〜その9 イタリアーノと化す?〜
http://kobushi.exblog.jp/29343277/
2020-12-24T20:20:00+09:00
2020-12-24T21:37:43+09:00
2020-12-24T20:20:29+09:00
onikobu
絵雑記
〜旧HP モーレツパンチ!! 『出不精が行く!!』より(2003年の記事)〜
フィレンツェを後にしてまず向かったのはルッカという町である。山岳都市というわけではないが、周りを城壁にぐるっと囲まれた歴史ある町だと『地球の歩き方』に書いてあったので、この日のメインの地へ行く道すがらちょっと寄ってみることにした。私も全く知らなかったのだが、ちなみにルッカはプッチーニの故郷だそうだ。ご存じない方のために説明すると、ジャコモ・プッチーニはイタリア・オペラ史上最大の作曲家の1人である。などと言って実は私も全く知らない。とにかく『イタリア・オペラの巨星』なんだそうである。しかし、そんなことはどうでもよくてとりあえずやって来た。
フィレンツェには随分と日本人がいて落ち着かなかったが、こんなマイナーな町にはさすがにいるまいと思いきや、駅に着くなり広島から来たというおじさんに声をかけられた。
「あなたも日本から来なさったか」
「はい、東京から来ました」
といった会話を一言二言話しただけで、一人旅同士の男達はすぐに別れた。旅先でわざわざ日本人とは接したくない、というのはやや不可思議な心理だが、その思いはなぜかとても強い。
駅の手荷物預かり所にリュックを預けて、まずは城壁の上を歩いてみた。城壁の上といっても、実際には幅が15メートルぐらいはある堤の上みたいなもので、一周が4キロの素晴らしき並木道である。出不精、夜更かし、朝寝坊の私といえども、こんな町に住んでいれば毎朝散歩をしそうなほどだ。実際にはしないだろうけれど。
なかなか良い町に寄ったものだと思いながら歩いていると、前方からドタドタと集団が走ってきた。中学生ぐらいの男女が体操着姿でランニングをさせられている。横に教師らしき人物がぴったり張り付いているのでこれは体育の授業に違いないと思ったが、ちょっと太めの女の子がもの凄く苦しそうな表情で走っているのを見て気の毒になった。いずこの国にも似たような光景があるものだなと、なんとなく感心した。
ぐるっと城壁を周り終えたら、町の中へ降りてみた。確かに中世そのままの街並みである。教会もなかなか素晴らしいものがあるが、しかし大して感心しない。なぜ感心しないのか。この町の建物に問題があるわけではない。実は、“飽きちゃった”のである。中世の街並みや教会が素晴らしいとはいえども、要するにどれも代わり映えしないのだ。山岳都市を見て回るというテーマでここまでやって来たけれど、なんだか面白くなくなってきた。最初の計画ではまだ4つも5つも山岳都市をまわる予定だったが、もうやめることにした。場合によっては国境を越えることも考えてみようか、そんな心境の変化が私に訪れていた。
さて、この日メインで訪れるつもりでいたのは、チンクエテッレのモンテロッソ・アル・マーレである。チンクエテッレとは東リヴィエラにある、ほぼ等間隔に並んだ5つの漁村の総称で、その西端に位置するのがモンテロッソ・アル・マーレだ。着いてみれば前は海、すぐ後ろは山で、道を少し歩けばたちまち坂道になってしまうほど狭い土地である。しかしこの美しさはなんとも喜ばしい。まずなんといっても海の透明度に驚かされる。地中海とはこれほどに美しいものか。瀬戸内海とはえらい違いである(といっても瀬戸内海は見たことがない。そもそも瀬戸内海を引き合いに出すのもおかしいかも知れないが、なんとなく地中海とは親戚関係にある海のような気がして)。たまに海を目にするのも良いものだ。せっかくここまで来たのだから街並みばかり見ていてももったいないのである。この土地を訪れることにして大正解だったと1人で悦に入った。
さて、今夜の宿を探さなくてはならない。しばらく村の中を歩き回ってみたがあまりきれいな宿が見あたらない。どれも似たり寄ったりなので仕方なく条件面から選ぶことにした。カードが使えてバールとリストランテ付きだが、とても汚くて全く期待の出来ない一件のペンショーネに入ってみた。もちろん全く期待していなかったのだが、これが実はとても素晴らしい宿だった。
フロントのおじさんに聞いてみればシングル55000リラだという。まあ安いからいいかとOKすると、おそらくここの看板娘であろう“かわいいかわいいシニョリーナ”(全く忘れていたのだが、旅日記にはそう書いてある。よっぽどかわいかったらしい)が出てきて、別棟の部屋へ案内してくれた。重い荷物を背負いながら5階まで階段を上がる私のほうを何度も振り返っては気の毒そうな顔をして笑いかけてくれたのがうれしかった(らしい。ほとんど記憶にない)。
別棟は新しい建物で、部屋へ入ると中は驚くほどきれいだった。バス付き、テレビ付き、家具は全て新品である。思わぬ誤算に大喜びした。今までの宿からすれば、この値段でこの設備なんて全く考えられない。田舎は随分安くなってるとはいえ、あのローマ初夜の忌まわしき『ホテル・ボッタクーリ』など180000リラだぞ、180000リラ。あのイカサマおやじのすかした顔つきは思い出すたびに腹が立つ。それに比べてこの宿のすがすがしさよ。やはり旅は田舎だ。田舎万歳。
宿も安いしカードも使えるので、ここは一丁奮発しようとこの宿付属のリストランテでご馳走を食することにした。この旅初めての贅沢である。時刻は7時ぐらいだが外はまだまだ明るい。夕方にさえなっていない。まだ誰も夕食などとっていないけれど、いい加減腹が減ってきたし、やることもないので1人でとっとと食事を始めることにした。今日はツーリストメニューなんてものはとらず(そもそも田舎ではほとんどそんなセットメニューは用意されていないけれど)、いわゆるア・ラ・カルト(これってフランス語?)でいく。前菜からパスタ、メイン、デザートにワインと、とにかくかなり腹一杯食べて飲んだ。デザートはよくわからないので(というか他の料理もよくわからないけれど)適当に頼んだら、丸まんまの果物がゴロゴロと出てきて驚いた。とてもじゃないが腹一杯で食えたもんじゃないから部屋へ持ち帰る旨伝えようと思ったが、もちろんイタリア語は使えないので困っていると、少し前から隣の席でお食事中の老婦人が私の英語をイタリア語に訳して店の人に伝えてくれた。果物は袋に入れてもらい、お勘定も宿代と一緒に最後に清算するということで話を付けてくれた。
しこたまワインを飲んですっかり酔っぱらっていた私はいつもより多少外向的になっていたので、席を立つときにその御婦人に向かって、
「ブォナ・セーラ(Buona sera)」
と笑顔でイタリア語のあいさつをした。すると御婦人は驚いたように、
「オオ、ブォナ・セーラ!?」
と声を発すると、私の顔をうれしそうに眺めた。続いて御婦人がにこやかに「チャオ!」と言ったので、私も「チャオ!」と返した。
さっきまで片言の英語しか使わなかった東洋人が急にイタリア語を話したので、ちょっとうれしくなったに違いない。それできっと彼女は驚いたような声を発したのだろう。そんなことを考えながら、私は満足して自分の部屋へ戻った。
しかし、どうやらそうではなかったらしい。この10年間、今の今までそうだとばかり思っていたが、あらためて“Buona sera”という言葉を調べてみれば、それは“こんばんは”という意味だった。私が言いたかったのは“おやすみなさい”であって、正しくは“Buona notte”だったのである。なんたる間抜け具合か。それまで会話を交わしていた男が立ち去り際に突然、
「こんばんは!」
と笑顔で言ったのである。御婦人が、
「こんばんは!?」
と、とまどうのも当然だ。おかしくて笑いもするだろう。その御婦人の笑顔を見て、
(おお、驚いてる驚いてる)
と、満足して帰っていったのだから格好悪いったらありゃしない。
さて、いつもより大量にワインを飲んだ私はすっかり酔っぱらいになって、部屋へ入るとなぜか熱くて上半身裸になった。赤くなった顔を鏡で見てみるとどうもこれは東洋人には見えない。イタリア人みたいな顔に見えるのだ。私は純粋な日本人だが(プロフィールにおける、じいさんがロシア人という話はフィクションである)ハーフっぽいとはよく言われる。クォーターだと真顔で言えば面白いぐらい信じる人がいる。しかし、今鏡の中にある私の顔はまさにイタリア人ではないか。私はもしかしたらイタリア人の生まれ変わりであって、かつて建築に携わってきたのではないか、そんなことがにわかに本気で感じられてきたのである。
「証拠写真を撮ろう!」
私は鏡に向かって自分の顔を撮影した。
この村とこの宿がとても気に入ったので私はここにもう一泊することにした。新婚旅行でももう一度ここへ来ることにした。そして日本に帰ったら、この宿へ手紙を書こうと決めた。
私は至福のうちに眠りについた。
翌朝、素面に戻った私は、とっととモンテロッソ・アル・マーレを後にした。酔っぱらいとはいい加減なものである。後日、日本に帰ってこの時の写真を見てみれば、鏡の中にいるのは赤い顔をした純粋な日本人であった。
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イタリア失業旅行記 〜その8 美しき塔の町〜
http://kobushi.exblog.jp/29340336/
2020-12-22T17:33:00+09:00
2020-12-22T17:33:47+09:00
2020-12-22T17:33:47+09:00
onikobu
絵雑記
〜旧HP モーレツパンチ!! 『出不精が行く!!』より(2002年の記事)〜
シエナのバスターミナルでサン・ジミニャーノ行きのチケットを買い、バスに乗る。ここは自販機ではなくて窓口なので問題なく買えた。バスはフェラーリ・バスである。きっと赤をメインにしたカラーリングでなかなか格好良かったに違いない(実のところ全く憶えていないし、資料もない)が、さすがにスーパー・バスというわけでもなく、とくに速く走ることはない。それにしてもチケットの使い方が例によってもうひとつ納得いかない。バスは運転手ひとりのワンマンカーで、後ろ乗り前降りである。乗客はバスに乗り込むと機械にチケットを突っ込んでハサミを入れる。行き先を読み込むような高度なシステムとは思えない。おそらく単に切り込みを入れるだけの機械だ。切り込みの入ったチケットを手にしたまま目的地まで移動すると、結局そのまま降りる。運転手に渡すわけでも見せるわけでもない。要するにノーチェックである。これではチケットの額など関係ないではないか。なーにか(『男おいどん』風)。
なんにしても、直通バスで50分、サン・ジミニャーノに着いた。今日も馬鹿晴れ。暑い。暑いのでBarで水を買う。もちろんセンツァ・ガス。ここでちょっとBarについて説明しておくと、これはバーではなくてバールと発音する。お酒もあるけれど、日本で言うところのバーとはだいぶ違って、コーヒーがメインの一種のカフェだが、日本の喫茶店ともまただいぶん違う。バールはどの街へいってもそこら中にあって、イタリア人の生活の中には欠かせない極めて日常的な空間である。基本的には客はカウンターで立ち飲みをする。エスプレッソなどをクイッと飲み、カウンターにコインを置いてさっさと立ち去るイタリア人達、というのがよく目にする光景だ。座席が無い店も多いが、座席がある場合には立ち飲みと座り飲みでは値段が違うらしい。朝、昼、晩とそれぞれ違った飲み物を違った飲み方で楽しむなんてことが彼らの日常のようである。が、コーヒー好きの私ではあっても、本場エスプレッソのあまりの濃度とその少量さ加減にはついに馴染めなかった。カプチーノは無難に美味しく量もやたらと多いので、お買い得感も加わって、夕食の後にはほとんどいつも飲んでいたけれど、炎天下を歩き回って喉をカラカラにしていた昼間にフラッと立ち寄るバールでは、たいていはフレッシュジュースを飲み、たまにはビールを飲み、そしていつもミネラルウォーターを買っていた。
サン・ジミニャーノはこの旅で訪れた中ではもっとも山岳都市らしい街だ。最盛期には72もの塔が林立していたというが、この時には14といった数に減少していた。それでもこの狭い街の中に整然と塔が立ち並ぶ様は他の街では目にすることができない光景であり、それゆえ、この街全体のシルエットには独特の美しさがある。日本人は見かけなかったが、それなりに外国人観光客もいて、地元の学生か何かに英語でアンケートをとられた。アンケートをとった女性も、バールの女性も、インフォメーションの女性も、何かしらの会話を交わしたアメリカ人観光客も皆にこやかでとても感じがよかった。といってもほとんど記憶にないのだが、日記にはそんなようなことが書いてある。バス停にはブロンドの美女もいて、ここは良い街だなあと思ったかも知れないが、やっぱりその辺の感情までは憶えていない。
路地が狭い。道上を建物がまたいでいるのは当たり前で、ピロティ(建物の一階部分で壁が無く、外部に開放された空間)が完全に道を兼ねているところもある。公道とか敷地とかいった区分けがどうなっているのか不思議だが、まあどっちでもよい。それよりもこんな街が現実に使われていて、人々が当たり前に住んでいるということがとても妙である。建物の屋根瓦は朱に統一されていて、これが美しい。昔ながらの色なんだろうが、こういうものを維持するための行政の規制が厳しいという話も聞く。ヨーロッパでは古い街並みを保存するための規制がとても厳しいが、新しいことをやりたがる建築家や都市計画家達からするとありがたくない面でもあるという。しかし、はっきり言って、現代のデザイナー達がえらそうな理論を振りかざして作り出した街並みが、いかに小綺麗であろうと先進的であろうと斬新であろうとお洒落であろうと、かつてのこうした街並みに比べて愛着の湧かない街になることは間違いがない。現代の建築家や都市計画家やデベロッパー達が依っている理論や理想などは実際『屁』のようなものだ。専門家の言っていることだからなどと信用しちゃいけない。大したことは考えてないのだ。もちろん個々の建物における耐震性や耐火性、居住性や防犯性は向上しているだろう。だが、街全体の居心地はよろしくない。人間が自然に感じる気持ちよさ、居心地の良さを街づくりにすぐに反映させられるほど単純には今の世の中はできていないからだ。理想に燃えて色々なことをやっている人達は確かにいるけれど、『気持ちのいい街』なんてものを作り上げることは現代では不可能なのかも知れない。
さて、サン・ジミニャーノではネタになるようなこれといった出来事もなく、一通り見て歩いた後、とっとと麓までバスで降りた。フィレンツェへ向かう電車に乗るべきポッジポンシ駅の場所が分からず、バールではないカフェのようなところで尋ねてみるが、英語が通じない。イタリアの田舎では英語はほとんど通じないのだ。『ステイション』でさえ分からないのである。発音の問題ではない。と思う。イタリア語で『駅』はなんというのか。何年か前におニャン子の河合その子が『蒼いスタシオン』という歌をうたっていたなあと思い出したが、あれはフランス語である。鞄からイタリア語会話の本を引っ張り出した。『スタッツィオーネ』だった。いかにもイタリア語である。その単語を言うとお店のおやじさんが目の前を指さした。貨車の姿まで見えている。なーにか。店の真ん前全部が駅だった。我ながら格好悪い。
イタリア人をとても羨ましく思ったことがある。シエスタだ。長い昼休み。昼食後、皆仕事を休んで昼寝などをするらしい。学童達は家へ帰って昼ご飯を食べ、長いシエスタの後、再び登校するとも聞いた。日本人もそのぐらいのんびりやりゃあいいじゃないかと、特にかつての上司M澤さんなどにむかって強く思う。おそらくはこのシエスタで一時帰宅の中学生であろう。ポッジポンシ駅で大騒ぎの大団体に取り囲まれた。男の私からすると女子生徒達はとても可愛い。が、野郎は生意気盛りの憎たらしさばかりが目立つ。とは言ってもやはりどちらもとてつもなくうるさい。落ち着かないことこの上ないが、同じ電車でひとときを共に過ごすしか仕方がない。これからの騒がしいひとときのことにやや思いやられていると、ベンチで横に座っていた初老のおやじさんが話しかけてきた。イタリア語なので何も分からない。色々言ってくるが私は無言で困った顔をするしかなかった。するとおやじさん、自分を指さして「イタリアーノ」と言い、次に私を指さした。質問を理解した私は「ジャポネーゼ」と答えた。すると、
「そうか、日本からきたのか、兄ちゃん。楽しんでいきな」
と、おやじは言った。かも知れない。きっとそんなことを言っていたに違いない。そんな会話がなんとか成り立ったことで、やっと満足げな表情を浮かべたおやじだった。とても味のあるおやじさんで、なんとなく忘れられない光景である。
電車も数駅を過ぎると子供達も消えて静かになった。静けさが戻ると車窓から眺める景色がさらにきれいに見える。日本の景色とは随分違うものだと感心する。日本の田舎はとてもうっそうとしている。うっそうとしている上に、山はみんな杉だらけだったりする。残念ながら、美しいと思う景色にはなかなか出会えないのである。が、イタリアは街もきれいならば郊外も美しい。土地がやせていて乾燥しているから、日本のように植物が繁茂しないという話を元上司のM澤さんに聞かされたことがあるが、確かにそうらしい。山の景色は岩肌と緑が程良く配置されていて、そのバランスが絶妙に良い。はあ、こんなところまでヨーロッパはうまくできているなあと羨望を感じた。こりゃあ女の子達が憧れるわけである。
さて、電車はフィレンツェへ着いた。ここは日本人が多い。当たり前の観光コースである。いくつか歴史的な建物などを見てまわったが、基本的にここは私の興味の対象ではない。というわけで、書くべきこともないまま翌日へ至る。大きな街は面白みがない。5日めはもっと田舎へ行くのだ。
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イタリア失業旅行記 〜その7 セピア色の街〜
http://kobushi.exblog.jp/29340332/
2020-12-22T17:29:00+09:00
2020-12-22T17:29:13+09:00
2020-12-22T17:29:13+09:00
onikobu
絵雑記
イタリアへ来て初めて電車に乗った。ユーレイルパスは一等車に乗れるので、ゆったり快適である。おまけにえらくすいている。それにしても、日本ほど電車が時刻表に忠実に動く国はないそうだが、イタリアのいい加減さも度を過ぎていると思う。30分ぐらい遅れるのは当たり前で、時刻表どおりに発車することなど皆無だろう。むしろ、定刻に発車したらみんな怒るに違いない。初めて乗ったこの列車も当然のように充分遅れて発車した。
ローマからの直線距離にすると200キロもないが、幹線から外れているので時間を要する。乗り換えを含めて四時間ほど、かなり長時間の移動になった。シエナの駅に着いたときは既に夕方だったろうか。いや、時刻は5時ぐらいだったと思うが夕方ではない。日が長いので、まだまだ空は青かった。駅を出たら外はシエナの街なのかと思っていたら、そこはまだ麓だった。山岳都市であるシエナの市街にはバスで登って行かなくてはならないらしい。中世にはフィレンツェのライバルとして栄えた街だそうだが、この駅の小ささと人の少なさに驚く。
バスに乗るためにはチケットがいるようだが、窓口が見あたらない。するとバスチケットの自販機を見つけた。誰も買っていない。1人で悠々とそのマシンの前に立った。自販機など、どこの国へ行っても似たようなものだろうと思っていたが、この機械はなんとなく違っていた。
記憶によればチケットはたぶん900リラだった。100円ぐらいである。私は1000リラ札を入れた。「ウィーン」といいながら札は入っていったが、すぐさまベロンと吐き出されてきた。日本でもよくあることである。私はいったん札を抜き取り、しわを伸ばして再び機械へ突っ込んだ。「ウィーン」という音と共に札は飲み込まれたが、やはり再びベロリと吐き出されてきた。このぐらいなら日本でもまだよくあることである。私は更にしわを伸ばし、もう一度チャレンジした。ベロリンと吐き出されてきた。よくあることだ。札を取り替えた。しかし、ダメだった。
1000リラ札をあきらめ、5000リラ札を入れた。だが、これも嫌われた。いったい何がいけないのかわからない。更に札を替え、1万リラ札を入れた。望みはかなわずそれも拒否された。しばらく粘ってみたがダメである。もう何度吐き出されたことだろう。私は途方に暮れた。どうして入らないのか。自販機には確かに何種類もの紙幣の絵が描いてあり、今まで入れたものは全てそこにあった。丁寧なことにこういう風に入れるんだよと矢印まで描いてある。
「矢印…?ムムッ、もしや!?」
ハタと気付いた。私は1万リラ札を自販機に描かれている絵のとおりの向きに入れてみた。すると、紙幣はスルスルと吸い込まれ、そのまま戻ってくることはなかった。
実は、表裏ぐらいは合わせなくてはならないかとも思い、自販機の絵に描いてある面を上にして入れてみたりもしたのである。しかし、まさか入れる向きまで限定されているとは思わなかった。日本の自販機であれば、向きはもちろん表裏も気にせずに入れられるのだから、そんなこととは思いも寄らなかったのである。とにかく、格闘数分、やっとチケットを買えるところにまで漕ぎつけた。
いざ購入のボタンを押そうとしたが、自販機にはボタンが3つぐらいついていた。どれを押せばいいのかよくわからないのだが、おそらくこれに違いないというボタンを押した。
「ガチャン!」
チケットが出た。続いておつりが出るのか、あるいは釣り銭ボタンを押すのかと思っていると、
「ガチャン!」
再び聞こえた音と共にまたチケットが出てきた。
「ありゃ?」
予想もしないことだ。何ごとかと思っていると、
「ガチャン!」
やはりというか、間もなく3枚目が出た。これはやばい。何とか止めなくてはならない。
「ガチャン!」
4枚目が出た。よく分からないが、他のボタンを押してみた。
「ガチャン!」
5枚目が出た。こうなればとにかく押してみるしかない。私は3つのボタンを何度も押した。
「ガチャン!…ガチャン!…ガチャン!…ガチャン!…ガチャン!…ガチャン!」
結局チケットは11枚出た。1万リラ分購入したわけである。
「はぁ〜…」
私はため息をついた。
その時、横から誰かが声をかけた。見るとダンディーなおじさんが笑顔で近づいてきた。親指をグッと立てて、
「ウーノ(数字の“1”の意味)、なんたら、かんたら」
ジェスチャーを交えて何か言っている。どうやら自販機の使い方を説明してくれているらしい。
それによると、金を入れ、まず枚数ボタンを押し、次に購入ボタンを押す、という手順のようだ。なるほど。枚数ボタンといっても1つしかないようだから、枚数分の回数を押すのだろうか。しかも、枚数ボタンを省略すれば、投入額分のチケットが一気に買えるという、とても親切な設計でもある。きっと、勝手の分からない観光客などからこうやっていつも余計な金をせしめているに違いない。なんたるわかりにくさか。もっとも、イタリア語では説明がちゃんと書いてあるのかも知れない。私は分かったと大きくうなずくと「グラッツィエ」とお礼を言った。笑顔が素敵な、とても親切な紳士だ。うれしくなった。だが、後の祭りである。今更使い方を知ったところで、手元にある10枚の余分なバスチケットは戻すことができない。
しばらくしてバスが来た。よく分からないが、とりあえず乗り込んだ。後乗り前降りである。チケットを手にしていたが、乗るときには特にどうする必要もなさそうなのでそのまま持っていた。程なくシエナの中心に付いたようなので、他の乗客と一緒に降りようとした。しかし、降りるときにチケットを出そうとしてもどこに出していいやら分からない。運転手も何も言わないので、結局そのまま降りてしまった。あんなに苦労して買ったのに、まるでタダ乗りのような格好になった。旅の間にまた使う機会もあるかとも思ったが、結局11枚のチケットはそのまま日本へのお土産になった。
古都シエナは、絵の具のシェンナ色の語源となったというだけあって、街全体がセピア色に覆われていた。道は石畳で、全てが坂道といっていい。街の中心にはカンポ広場という世界的に有名な広場がある。おそらく世界中の建築科の学生がこの広場についての講義を受けているに違いないが、私はと言えば、特に記憶もない。だが、きっと耳にしてはいるはずだ。そんな有名な広場である。夏にはこの広場で“パリオ”というこれも世界的に有名なお祭りがあるようだが、見ることのできなかったことなのでどうでもよい。
この街には思いのほか人間が多い。県庁所在地であり(何県かは知らないが)、大学もあるので通りは人で溢れている。若者が多いため、全く現代風のお洒落なお店も沢山ある。有名な観光地なので世界中から集まった観光客たちもいる。中世の山岳都市ということで、もっと静かで趣のあるところを期待していた私としては、正直、この街はあまり好きにはなれなかった。
その日の宿はもちろん飛び込みである。最初、『地球の歩き方』に載っている宿に行ってみたが満室だった。そこのフロントで他のホテルを紹介されたので、そこへ泊まることになった。それがまさに中世の建物である。もともとは名士の豪邸だったところかも知れない。玄関を入ると、ロビーの天井の高さに驚いた。3層吹き抜けぐらいはある。壁には大きな肖像画が何枚も掛けられていて、代々このお屋敷を所有したご先祖様方といった風である。全くもって中世に迷い込んだかのような、外国のホラー映画に出てくる光景そのものといった感じである。ポーターに案内され、赤い絨毯の敷かれた木製階段をギシギシと上がっていくと、これまた高い天井の廊下を突き当たりまで歩き、不気味に薄暗い一画の、年季の入った扉をギイッと開けた。
怖い。『出そう』とはこういうところを言うのかと思った。数百年間の染みついた思いが部屋中に満ちているような寒気を感じた。部屋の天井は5メートル以上もあろうか。無駄に高い。唯一の小さな窓から明かりが差し込んではいるが、夜になったらどれほど気味悪いことかわからない。今夜は覚悟した方がいいかも知れないと本気で思った。
いったんホテルを出て、シエナの街を歩いてみた。1時間も歩けば一巡りできてしまうほどの小さな街だ。街全体が1つの見所のようなものであるが、なんせ小さいので観光スポットとしては数えるほどしか見所がない。そのうちの1つ、ドゥオモ(大聖堂)は強烈である。ファサード(建物の顔となる正面の部分)の一部はレプリカだそうだが、その装飾にかける熱意は大変なものだ。やれる限りやり尽くしました、といった感じだろうか。キリストの教えとは特に関係ないだろうになあ、と思う。
カンポ広場に座ってしばらく景色を眺めていた。随分と違った世界に来たものだと感慨にふけろうとするものの、若者が多くて落ち着かない。その辺の路地をしばらく歩き回ってから、晩飯のピザを買ってホテルに戻った。貧乏旅行では毎日レストランで食うわけにも行かないので、時々こういう晩飯になるのだが、ピザはうまい。日本では食べたことのないようなものも多く、さすが本場だと思う。だが、太る。
夜のホテルはいよいよおっかない。部屋の照明はスタンドが2つばかりの薄暗さ。ばか高い天井に自分の巨大な影が揺らめいている。
「この影が2つになったりしたらやだなあ」
などと嫌な想像を膨らまして、ますますゾッとする。部屋にシャワーが付いていたが、実に古い設備で、あまり心地よくない。頭を洗うときに目をつぶるのが久しぶりに怖かった。寝てしまった方が楽だろうと、日記をつけたらすぐ寝ることにした。電気を消すとそこは暗黒の世界である。何も出ませんようにと祈りながら眠りについた。
無事、朝を迎えた。窓の隙間から朝のまぶしい光のすじが差し込んでいる。窓を開けると、この日もウンザリするほどの大快晴だ。朝の日差しが部屋の不気味さを一掃していた。本日は、サン・ジミニャーノとフィレンツェへ向かう。
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イタリア失業旅行記 〜その6 どこだ!?〜
http://kobushi.exblog.jp/29339391/
2020-12-21T22:04:00+09:00
2020-12-21T22:04:53+09:00
2020-12-21T22:04:53+09:00
onikobu
絵雑記
ローマ2晩目の宿は、『地球の歩き方』にも載っている良心的なペンショーネ(ペンション)だった。昨夜の半額以下だがとても綺麗な部屋だ。親父さんはイタリアっぽくない物静かな人。という言い方はちょっと偏見が強いかも知れない。イタリア人といえどもみんながみんな馬鹿陽気なわけではないし、誰もが広い通りの両側で大声の会話を交わすわけでもなかろう。綺麗な女性を見ても声をかけない男性だっているだろうし、ましてや、空港で、乗客を乗せたバスの行く手をふさいだまま、平気な顔で延々とおしゃべりを続けている貨物運搬車の運転手のような連中ばかりがイタリア人というわけでもない。冗談を言わない関西人がいるように、物静かで実直なイタリア人もいるのである。とはいっても、イメージとしてはやはりイタリアっぽくない親父さんではある。
『地球の歩き方』で紹介されているだけあって日本人の客が多い。フロントには日本人の名刺が大量に置いてあった。日本人客が多い宿ということで多少の安心感があると共に、こんな所まで来て日本人と顔を合わせたくはないという思いもある。どういうわけかむしろ後者の気持ちのほうが強い。宿の親父さんとペラペラのイタリア語で談笑していた若い女性2人組の日本人旅行者と顔を合わせたら、なんとなく面白くない気分になった。こちとら、ほぼ100%イタリア語を解さず、おまけに英語さえ達者でない身の上からすると、学生らしき若さにもかかわらず旅慣れた風で、あまりにも余裕シャクシャクな彼女たちの様が私のシャクにさわったらしい。我ながら了見が狭い。しかしシャクなものはしょうがない。
部屋では浴槽で手ずから洗濯をした。“手ずから”ではすぐ疲れたので、“足ずから”にしてみるとなかなかはかどったが、それでも大変なことに変わりはない。洗濯機の便利さが身にしみた。日本ほどトイレットペーパーが柔らかい国はないと聞くが、実際イタリアのそれはゴワゴワであった。といっても使えない堅さではないし、もちろんあのあたりを傷つける程なわけでもない。これが当たり前と思っていれば特に問題に感じるようなものではない。むしろ日本のトイレットペーパーは柔らかすぎではないかと思った。日本人は必要以上に贅沢をしていると最初に感じたのはこのトイレットペーパーについてだったかも知れない。
この晩、初めてレストランへ入った。ペンショーネから数軒先に手頃なトラットリアがあったのでやや緊張しながら席に着いた。トラットリアというのは庶民的で比較的安めのレストランである。いわゆるちゃんとしたレストランはリストランテという。私はグルメではなく、食い道楽でイタリアに来たわけではないので、そもそもあまり高いところへ入る予定はない。しかし、イタリアには日本のような定食屋やファミリー・レストラン、あるいはラーメン屋といった店に相当するものが基本的に無く、トラットリアといえども生活者が日常的に訪れるようなところではなさそうであるから、それなりの値段はするのである。ワインも飲んで、前菜からデザートまで一通りをたのめば少なくとも4千円程度は覚悟しなければならない。しかし、貧乏旅行者にとってありがたいことに、多くの店ではツーリストメニューというものが用意されている。要するにセットメニューであり、量はやや控えめだが値段はだいたい2千円以下に抑えられている。それでも毎日食べるにはちょっと高いけれど、ワインもついて、前菜のパスタからデザートまでひととおり味わうことができるのは魅力である。良心的な店ではワインがボトルの半分ほども付いてくることさえある。私は日本ではワインなど滅多に飲まないが、イタリアへ来て本場のワイン(そう高いものではないだろうが)を飲んでみると、そのうまさに感激した。やたら晴れまくっている乾燥した気候の中を一日中歩き回っているために、ワインが一層美味しく感じる。最初は普段日本でやっているように喉の渇きをビールで潤してみたが、どうもあまりピンとこない。いったい何故だろうかと考えてみるに、イタリアのビールが日本のものほど美味しくないということもあるのかも知れないが、どうやらイタリア料理にはビールは合わないようなのである。しかし、そればかりでもない。実は、それ以上に私が強く感じた要因というのは、日本とイタリアの気候の差なのである。ビールは日本のように湿気の多い蒸し暑さの中で飲むのが一番美味しいように思う。逆に、ワインはイタリアのような乾燥した暑さの中で飲んでこそ最高に美味しい。イタリアで飲んだ最高にうまいワインを日本に持って帰っても、きっとそれほど美味しくは飲めないだろうと思った。やはり、その土地で作られ磨かれていったものは、その場所で口に入れなければ本当の美味しさはわからないものだろう。喉の渇きをワインで潤すなんてことは日本では考えられない感覚だが、イタリアの気候の中ではまさにそれこそが当然なのである。ワインが水代わりという感覚がよく理解できた。
さて、最近はそうした手続きを廃止した航空会社も多くなっているらしいが、『リコンファーム』というものがある。飛行機の予約をしている場合に、「予約どおりに乗りますよ」ということを航空会社の現地事務所に伝えなければならない。それを怠ると、場合によっては予約が取り消されて乗れなくなることがある。ツアーなどで行った場合には旅行会社がやってくれるので気にすることはないが、個人旅行の場合は自分で連絡をしなければならない。というわけで、帰国便について大韓航空のローマ・オフィスへ連絡する必要があった。まだ十日も先のことではあるが、忘れては大変であるし、いくら早くとも別に構わないらしいので、ローマにいる間にリコンファームをとっとと済ますことにした。
電話を一本入れれば済む話なのだが、連絡先がわからない。そもそもどこにも書いていなかったのか、あるいは電話番号の書いてある書類を日本へ置いてきてしまったのか、とにかく調べる必要が生じた。しかし、調べ方がわからないので、この晩、宿の親父さんに片言の英語で説明すると、彼が電話帳で調べ始めてくれた。ところがどういうわけかわからないのである。大韓航空は世界中どこへいっても『Korean Air』で通じるものだと当然のように思っていたが、いくら捜しても電話帳にそんな記載はない。そのうちそこのシニョリーナ(娘さん)も出てきて調べてくれたが、やはりわからなかった。彼女が困った顔で言うには、翌朝に駅のインフォメーションで調べてもらうのがいいだろうということであった。
翌朝、ペンショーネを出てテルミニ駅へ行った。その日は10時ぐらいの電車でローマを発ち、いよいよ最初の山岳都市、“オルビエート”へ向かう予定である。早いところリコンファームを済ませてしまいたい。早速駅のインフォメーションに行って訊いてみた。こういうところは片言の英語でも通じる。しかし、『Korean Air』についてはここでもわからないという。ツーリスト・オフィスへ行って訊いてみろと言われた。仕方なしにツーリスト・オフィスへ行こうと思ったら、そのオフィスが見つからない。なんだなんだ、もう。電車の時間もあるのでイライラしてくる。テレフォンなんたらというサービスの窓口を見つけたので、とりあえずそこでも訊いてみたが、やはりわからず。どうすれば調べられるだろうかと尋ねてみたが、それもわからないと答える。まったく役立たずばかりそろいやがって。なんでわからんのだ。空港に行けばKorean Airと大きく書いた飛行機があるだろう。オフィスがあることは間違いないのに、なんでそれが電話帳に載っていないのだ。『テレフォンなんたらサービス』なんだから調べられるだろう、そのくらい。なんとか調べてくれ。そんなことを思っても、相手にはそれ以上やる気もないので、こちらはあきらめて再びインフォメーションへもどった。今度はしっかりとツーリスト・オフィスの場所を聞き、期待を胸に訪れた。さすがツーリスト・オフィスだけあって飛行機会社のリストを持っていた。だが、そのリストにも『Korean Air』の文字はないという。
「なんじゃそりゃ、おい」
大韓航空はイタリアじゃ潜りなのかと思った。しかし、分からないでは済まないのだ。なんとか食い下がって調べてもらうようお願いした。するとそこのシニョーラ(御婦人)がどこかへ電話して、納得顔でメモをとっている。これは手応えがあったなと思って見ていると、そのメモを私に見せて説明してくれたことには、大韓航空はイタリアでは『Korean Air』とは似ても似つかない名前になっているということであった。それじゃあ、分からなくても仕方ないか。しかし、イタリア語では違っていると言っても、飛行機会社のリストにさえ『Korean Air』の文字がないというのはあまりにもお粗末だろうに。
オフィスには電話をすれば済むのだが、割と近くのようだし、大事なことなので、片言の英語で電話だけというのは多少の不安があって、オフィスまで歩いて訪ねることにした。ところが、いざ歩いてみると意外と遠い。街並みを眺めながら歩いた。前日に歩いたのとは少し違って、比較的現代的な街並の地域である。それでも日本とは随分異なる部分に気が付く。街には看板が少ないし、そもそも店自体が日本ほど多くない。イタリアにある飲食店なんて、実にヴァリエーションが少ないのである。日本ほど色々なものが美味しく食べられる国はないと聞くが、まさにそのとおりだなと実感する。自動販売機も駅の中などにほんのちょっとあるぐらいで、街頭に立っているものなど皆無である。要するに、とても街が整理されているし、質素である。確かに日本ではすぐに何でも食べられるし買えるけれど、日本という国がいかに物に溢れているか、それも無駄な物ばかりをどれほど大量に消費しているか、その異常さというものをつくづく感じた。
それから治安の問題で、最近の日本の治安の悪さからするとそう変わらなくなっているのだろうが、警官が機関銃を持って立っているということは、やはりそれなりに危険度が高いのかなと思わなくもない。実際、歩いているとジプシーにも襲われる。まあ、襲われると言えばオーバーだが、懐の金を狙って近づいてくるのである。これについては、リュックを貸してくれた会社の後輩、N島君にも注意を促されていたことであるし、ガイドブックでも警戒を呼びかけている。それが我が身にも起こった。歩いている私の前に3人の女性。ジプシーのおばさん達がテテテテと寄ってきた。目がうつろである。おばさん達は手にボール紙を持っている。それを私の胸へ当てたかと思うと、そのボール紙の下で私の懐へ手を入れようとしてきた。この手口については聞かされていたし、とにかくでかい声で追っ払えと言われていたので、無理に怒った表情を作り、我ながら恥ずかしくなるような大声で、
「NO!」
と叫び、追っ払うジェスチャーをすると、彼女たちはすごすごと去っていった。なんとも哀れを感じるほうが強くて、別に怒ってもいないし、大声なども出したくはないのだが、だからといってそのまま金を取られるわけにもいかないので仕方がない。しかし、なんだが居心地が悪くて、私はやはり大声とか怒声というものには向かない男だなと思った。
さて、やっと大韓航空のオフィスに着けば、ものの1分でリコンファームの手続きは済んだ。再びテルミニ駅まで歩いて帰ってみれば、既に予定の電車はいない。大幅に時間を食ってしまった。仕方がないので、ここは予定を変更して“オルビエート”をパスし、いきなり“シエナ”に向かうことにした。ローマとはここで一旦お別れである。
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イタリア失業旅行記 〜その5 ローマのかほり〜
http://kobushi.exblog.jp/29339385/
2020-12-21T22:01:00+09:00
2020-12-21T22:01:44+09:00
2020-12-21T22:01:44+09:00
onikobu
絵雑記
〜旧HP モーレツパンチ!! 『出不精が行く!!』より(2002年の記事)〜
ローマはすごいところだ。何がすごいかといって、首都である街の中に2000年前の遺跡がウジャウジャとあるのだ。遺跡というものにたまらないロマンを感じる私は、この一日、ローマ市内の遺跡を見て回ることにした。
白タクと、うさん臭いホテルにぼったくられて現金がほとんどないので、とりあえずトラベラーズ・チェックを現金化しなければならない。ホテルを出て暫く歩き、やっと銀行を見つけた。当時の『地球の歩き方』には、「両替詐欺に注意」と書いてある。イタリアの銀行マンは日本のそれとは違って相当のワルが混じっているから、両替したお金をちゃんと目の前で数えないとしっかり抜き取られているということが少なくないそうである。しかし、旅の間中、私はそんなことは一切気にしないでとっとと財布にしまっていた。なぜなら、本をよく読んでいなかったからだ。だから、もしかすると気づかないまま随分と損をしていたのかも知れない。だが、まあいい。昔の話だ。次に行く機会があったら気をつけよう。
私は『ローマの休日』というあの有名な映画を見た。あんな恋に憧れて、ローマに行ったら『スペイン広場』や『トレヴィの泉』なんかには絶対に行くのだ、と心に決めていた。なんて気持ちはやっぱりこの私にはこれっぽっちもなくて、全くもってどうでもいいと思っていたけれど、近くを歩いていたのでついでだから寄ってみた。実になんてことはない。素通りした。アルバムをひっくり返してみると一枚の写真さえ撮っていない。よっぽど興味がなかったと見える。
歩いていてまず目に付いたのは、なんだかすっごい大仰な建物。前の晩、白タクの中から見かけて、「なんじゃこりゃ」と思った建物である。『ヴィットリアーノ(ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂)』なる記念堂だそうで、1911年に完成した最近のものである。あまり趣味が良いとは思えない派手派手しさだ。
この建物を写真に納めていたら、後ろの露店で土産物を売っていたおっちゃんが声をかけてきた。一人だった私を気遣って、写真を撮ってやろうかと言う。別に撮って欲しくもなかったが、折角の好意なので笑顔で受けた。後日、できあがった写真を見てみれば、背景のヴィットリアーノは下半分だけでちょん切れてるし、レンズにおっちゃんの指がかかって写り込んでいるしで、全くまともな写真じゃないが、この旅行中で唯一他の人に撮ってもらった写真ということで、まあ、記念ではある。
当然といえば当然だが、写真を撮り終えたおっちゃんはすぐに商売を始めた。ローマの観光名所の案内本みたいなものを買っていけという。「中国人か?」と訊くから、「日本人だ」と答えたら何となく機嫌が良くなって、2,3百円分ほど安くすると言った。なぜか中国人より日本人が好きなようだし、写真も撮ってもらったので、お礼の意味も込めてさほど欲しくもないその英語のガイドブックを買った。我ながら相変わらずいいカモだなあと思うが、まあ、明るくて楽しげな良いおやじで、こちらの気持ちも楽しくなったから、それはそれでよい。
次に私が向かったのは歴史的有名建築物の『パンテオン』である。大学での建築史の授業などまともに勉強した記憶はないが、それでもこの建物の存在ぐらいはさすがに憶えている。現存しているものは再建されたものなので、オリジナルが建てられた時からやや時代は下っているが、それでも1900年近くは前の建物である。外観はシンプル。とにかくでかいドームだ。中へ入ると無茶苦茶涼しい。天然の冷房といった感じ。ドームのてっぺんに天窓が丸く開いていて、そこから差し込む光がスポットライトのように内部を丸く照らす。この穴が直径9メートルあるというから、そのでかさにただ驚く。この時の旅日記には、
「パンテオンってすごい!!」
と書いてある。なんだかとにかくすごいのである。だが、たいして長居はしない。
さて、次なる目的地へ向かって歩き出した。それにしても、ローマの街のなんと日本と違う事よ。ちょっと意外な感じなんだが、街なかを走っている車はFIATのコンパクトカーが多く、あまり高級車という感じの車は目立たない。「パー」とか「プー」とか、すこし間の抜けたクラクションの音が聞こえてきて、「ああ、日本と違うなあ」とそんなところにも異国情緒を感ずる。建物が違う。物の大きさ、スケールが違う。やはり日本よりもモノが大きく作ってある。樹が違う。雀も違う。鳥のさえずりが全て耳新しい。もちろん歩いている人間も違うし、街の匂いも違う。ローマの街には何か独特の匂いが漂っているのである。決して嗅いだことのない匂いではないのだが、何の匂いか思い出せない。首都のくせに、そこらじゅうにやたらとうんこが落ちているが、だからといってこれが匂いの正体というわけでもない。私の性質からして、こんな街では足下に充分注意を払わなければならない。一度、小学生ぐらいの少年が私の靴を指さして何かを訴えていたので、「踏んだか!?」と一瞬ドキリとさせられたが、確認するとそうではなかった。人騒がせなガキめ、と思ったが、結局彼が何を言っていたのか分からなかった。私の靴がどうしたのだ?この旅行のために歩きやすさを追求して買い求めたエコーシューズになにか問題があるのか? 確かにちょっと変わった色とデザインの靴ではあるけれど、指をさされる筋合いはない。
それにしても、歩いていると歴史的な建造物やら遺跡やらがそこら中にあるのでとにかく感心する。古代ローマ帝国だけではない。ルネッサンスのミケランジェロやらなにやら、有名人の関わった広場や建物が目白押しで、とにかく驚く。この時の旅日記には、「ローマってすごい!!」 とも書いてある。 さて、その晩の宿は早めに決めるつもりだったが、それでもまさか午前中から宿探しをするのもどうかと思うので、しばらくの間、荷物はすべて背負ったままの徒歩移動であった。五月のローマはカラッとしていてとても爽やかなのだが、それでも日差しは強烈で気温もかなり高い。湿度が低いので日陰に入ればうそのように全く暑くないが、街なかを歩いていればやはり日陰ばかりというわけにもいかない。重いリュックを背負ったまま歩き回っていると、さすがに暑くて喉がカラカラになった。と、気づいてみれば、目の前には有名な『カラカラ浴場』の遺跡がある。なんというタイミングのよさか。といって、実のところはちゃんと分かって歩いてきたのであるが、別にここでうまく喉をカラカラにしようとは思っていなかったので、やはりそこは意図しない体感的ダジャレのできあがりである。 さて、よくわからないままやって来たけれど、いざ『カラカラ浴場』を見物しようと思ったら、どうもここには入れないようだ。ガッカリである。鉄柵越しに眺めるしかない。しかし、たいしたものが見えるわけでもなく、つまらないので早々に立ち去ることにした。側にちょっとした食品系の露店があったので、立ち去る前に私はそこで水を買った。これで喉のカラカラを癒そうと思ったのだが、水を買うときに大事な一言、「センツァ・ガス」 を付け加えるのを忘れていた。どういう意味かと言えば、「ガス抜きで」ということである。基本的にイタリア人の飲む水は炭酸水である。これは日本人の口には合わない。ただ「水をくれ」と言うと炭酸水を渡されるので、この「センツァ・ガス」という一言は忘れてはいけないのである。しかし、口をつけてから気づいたのでもう返すわけにもいかないから、仕方なく飲んではみるものの、やはり不味い。それでも冷えているうちはよかったが、ちょっとぬるくなったらもう飲めない。ゲップは出るし、苦く感じるしで、結局飲み干すことができずに捨てることになった。あの人達がどうしてあんなモノを飲んでいるのかよくわからない。
続いて私がやってきたのは『コロッセウム(コロッセオ、コロシアム)』だ。あのあまりにも有名な古代の闘技場である。これは紀元80年にできているので、築1900年ちょっとである。遠くから見れば綺麗に見えるが、近づいてみればかなりメロメロになっている。大理石でできた部分は風雨にさらされてデロデロととろけた風味であるし、後の時代に建築資材としてあっちこっち持っていかれたそうで、中に立ち入ってみれば相当にみすぼらしい。まさに古代遺跡である。それにしてもそんな大昔にこれだけのものを作って、大々的にショーをやっていたというのには驚く。「コロッセウムってすごい!!」 と日記には書いていなかったが、アルバムには書いてあった。クレーンも何もない時代にあんなものを作った努力に感心する。
このあたりで昼食をとったはずだが、詳しい記憶がまったくない。きっと、パンか何かを買って食べたのだろう。昼飯といえば、パンかピザというのがお決まりだった。さすがにピザは旨いけれど、パンはいただけない。サンドウィッチのようなものはどれも旨かったためしがない。パンは堅くてボソボソだし、中に入っている生ハムのようなものがまた半端な味付けで、食のイタリアとは思えない出来映えであることが多かった。その辺がまたこの国の謎なのである。 そして、この日の目玉、『フォロ・ロマーノ』である。古代ローマの遺跡群だ。2千年前の街の中心である。入場料が1000円ぐらい。中へ入って見て回る前にトイレへ入ってみたら、トイレットペーパーの直径が40センチ程もあったので驚いた。トイレットペーパーの迫力もすごいが、このフォロ・ロマーノのスケールにも驚く。じっくり見ていれば数時間から半日はかかる広大さで、こんなモノが首都の中心部にデンと座っているのだからすごい。“すごい、すごい”ばかり言っているが、この街の持っている歴史的・文化的価値を考えればとにかく驚嘆せずにはいられないのである。シーザーが「ブルータス、お前もか!」と言って殺されたのが、『元老院』の前だというが、その建物もちゃんと建っている。歴史の時間に習った事柄がこの場所で起きたのかと思えばなんとも不思議な気分だった。 この旅の目的は山岳都市を見て回ることであって、はっきり言ってローマにはそれほど感心を持っていなかったのだが、とんでもないことである。これほど面白い街もない。世の中にこんな遺跡に溢れた首都があるものかと、とにかく感動したのである。明日はローマを離れるが、最後に戻ってきてまた残りの部分を見て回ることにしよう。 それにしても、ローマの持つ独特の匂い、これはいったいなんであろう。嗅ぎ馴染みがあるようで思い出せないこのかほり。花の香りであろうか。と思っていたら、思いがけずその正体がわかった。歩いている私の目の前をスウッと横切っていった男性が一人。その男性から『ローマのかほり』がぷうんと漂ってきたのである。「あっ!」 その時私は悟った。それは“ワキガ”の匂いであった。道理で馴染みがあるはずである。日本人に比べて体臭が強めなのか、ローマの街中がほのかなワキガのかほりに満ちているのである。 「ローマってすごい!!」
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イタリア失業旅行記 〜その4 イタリアだイタリアだ〜
http://kobushi.exblog.jp/29337706/
2020-12-20T17:46:00+09:00
2020-12-20T17:46:47+09:00
2020-12-20T17:46:47+09:00
onikobu
絵雑記
〜旧HP モーレツパンチ!! 『出不精が行く!!』より(2002年の記事)〜
5月10日の夜である。西回りで太陽を追っかけてきたので、今日は一日がとても長い。日本では既に朝なのだ。何にしても、ついにローマに着いた。入国審査は極いい加減。パスポートをパラパラとめくって私の顔をちらりと見たらおしまいである。おそらくこれが最初に目にしたイタリアらしさなんだろうなと思った。
無事入国を済ませ、さて、これからどうするか。といっても、市内に行ってホテルを捜すしかないのだが、やはり不安は大きい。横にいる日本人の団体に助けを求めようか。ツアーコンダクターにホテルを教えてもらうぐらいはいいだろう、なんてことを考えるが、自分のところの団体客に一生懸命になっているところへ、関係のない人間が煩わしいことを尋ねてくればかなりの迷惑だろうと考えて、やはりやめておいた。
とにかくタクシーで市内まで行こう。運ちゃんにでも訊けば適当な宿に連れて行ってくれるかも知れない。実は、さきほどからタクシーの運ちゃんらしき連中が数人ほど、客引きのようなことをやっている。すると、こちらから声を掛けるまでもなく、一人の男が英語で話しかけてきた。とてもうさんくさい。なかなか二枚目のあんちゃんだが、人間がいい加減そうである。「市内まで行くのか」とか「ホテルは決まってるのか」とかいったことを尋ねてくる。あまり信用のおけない男だと思ったので、手を振って「無用、無用」という意思表示をしたものの、そう簡単に引き下がるようなたまではない。
「良いホテルを知っている」
その言葉にグラッと来た。多少の危険はあるものの、ホテル探しはここで彼に任せてしまった方が楽である。「グッド・ホテル、グッド・ホテル」とあんちゃんは盛んに言う。ここで彼に任せて騙される危険性と、夜の街でホテル探しをしている間に強盗・スリ・引ったくりに遭う危険性。それぞれの極端な可能性を天秤に掛けて、私が「うーん…」と悩んでいるうちに、あんちゃんは携帯電話をかけ始めた。馴染みのホテルに連絡をして空き部屋の状況を尋ねているようだ。私はまだ何も返事をしていないが、既にあんちゃんは「OK、OK」と親指を立ててニコニコ顔である。「レッツ・ゴー! カモン」とかなんとか、もう事が決まったような態度で私を先導していく。さて、どうしたものか。彼のことを振りきって別の運ちゃんのところへ行こうかと思っても、他の連中が特にまじめそうに見えるわけでもない。
(ええい!)と、ここは覚悟を決めてあんちゃんに身を委ねることにした。駐車場へ行くと、あんちゃんは一台の小さな白い車の前で立ち止まった。
(うわぁ、白タクだあ)
正規のタクシーは車体が黄色いはずである。あんちゃんの車は文字通りの白タクに間違いない。
(こいつは、ぼられる)
そう思ったが、もう断れそうになかった。後から思えば、せめてこの時点で料金を交渉すべきだった。ホテル代も含め、なんとか食いさがっておくべきだったのだが、そこは初めてのことで弱気になっていたところもあって、もう、ぼられても仕方ないという気分になっていたのである。
「たとえぼられたとしても、正規のタクシーでも空港から市内への料金はかなり高く付くということだから」
というよくわからない慰めを自分に言い聞かせた。
あんちゃんは私を助手席に乗せるとすぐに車を出した。私は、後にも先にもこれほどモーレツな運転の車に乗ったことはない。かなりいい加減なあんちゃんだろうとは思っていたが、こんなにも凄まじい運転をするとは思わなかった。空港を出ると、しばらくはハイウェイを走った。片側2車線と思われる道路だった。“思われる”と書いたのは、車自体は決して2列などでは走っていなかったからだ。これはあんちゃんだけの問題ではなくて、イタリアの常識と言えるのだろうが、かなりの混雑にも拘わらず、というかむしろ混雑してるが故か、車線などお構いなしで皆が縦横無尽に走り回っている。横に3台並ぶのも当たり前だし、右から左から真ん中から、とにかく空いているところならどこからでも追い抜いていく。中にはきっちり車線を守って走っている律儀な車も多少はあるが、そういうのは邪魔者扱いされてクラクションを浴びっぱなしである。
(なんたるデタラメさ加減か。これぞイタリアだ)
そんな風に感心してもいたが、実のところはそんなゆとりも無かった。何と言ったって、このデタラメなハイウェイの上で、最も際立ってデタラメなのがこのあんちゃんの車なのである。まず他の車との速度差が尋常ではない。百数十キロをキープして、限界までブレーキは使わない。クラクションはほとんど鳴らしっぱなしと言っていい。
「そんなところは〜っ!!」
どう見ても通れないだろうという隙間をねらって急ハンドルを切り、クラクションの嵐で無理矢理車間を空けさせる。左右数センチずつしか余裕がないかと思われるようなところを突き抜けていく。前に遅い車が立ちふさがっていても決してスピードを緩めない。クラクションを押しっぱなしにして、驚くような勢いでどんどん迫っていく。
「ぶつける気かあ〜っ!!」
もう限界かと思ったときにようやくブレーキを踏み、決して大袈裟ではなしに本当にあと10センチという距離で衝突を回避する。そのままの車間距離をキープしながらクラクションを浴びせ、あおり続けて、前の車が少し寄った途端に急ハンドルで脇を追い抜いていく。そんなことの繰り返しである。私もさすがにこの運転には恐怖したが、そのうち、
(これ程の運転をするからには相当の腕前なのだろうから、却って安心出来るかも知れない)
と考えたら気が楽になった。そればかりか、あまりの凄さにだんだん面白くなってきて、ひとりでニヤニヤ笑い始めた。当のあんちゃんはそんな運転をしながらも全く緊張感が無く、なにかと私に話しかけてくる。
「俺は大阪に日本人の友達がいる。タカハ〜シだ」
適当なことを言っている。
「ホントに友達かね。どうせ俺みたいにカモになった客なんじゃないのか?」
私は心の中でそんなことを言った。
ようやく恐ろしいハイウェイが過ぎて、ローマの市街へ入った。深夜なので交通量も人の姿も少ない。私はローマの夜の街並みの美しさと大きさ、そしてなにより普段見慣れている日本の都市景観とのあまりにも大きな差異に目を見張った。まさに異国であり別世界である。
(なんたる違いであることか)
外国へ来たという事実を初めて実感したのはこの時であると言っても良いかも知れない。ただ感動した。
そんな感慨も束の間、あんちゃんの車はある小さなホテルの前で停まった。あんちゃんは三つ星のホテルだと言っていたが、看板についている星は二つである。やはりいい加減な男だ。さて、いよいよ白タク料金の支払いである。いったいいくらふっかけてくるかと思ったら、250,000リラだという。100リラがだいたい10円ぐらいなので、25,000円である。ふざけやがって。といっても相場を知らないので、どのぐらいぼられているのか分からない。まあ、2、3倍にはなってるだろうなあと思いつつも、値切り交渉はしなかった。相手はチンピラであるし、怒らせても面白くない。ただ、シャクなので領収書を要求した。別にそれをどこかへ持っていこうというつもりもなかったが、何かの時の証拠にはなろうかと思ったのである。すると、あんちゃんはちょっとうろたえたが、私がじっと見つめると仕方なしに書き始めた。渡されたレシートを見ると、25,000リラと書いてある。ゼロが一個足りないと言って突き返すと、あんちゃんは白々しくも、
「オー、ミステイク!」
などと下手な芝居をしたが、結局観念してゼロを付け加えた。つくづくデタラメな男である。
さて、グッド・ホテルだとの前宣伝だった宿は、あまりグッドには見えなかった。ロビーとも言えないただの廊下のようなエントランスホールの突き当たりに小さなフロントがあり、このチンピラあんちゃんと結託した、人相の悪いオヤジが立っていた。服装はスーツでパリッときめているし、背格好もすらりとしてなかなかダンディなのだが、表情が冷ややかである。笑顔に温かみが無く、一見して善人ではない。あんちゃんのお友達だから仕方ないが、この雰囲気ではここでもまたぼられるのだろうなと思った。とはいっても、夜中の12時にホテル探しをして、安くてよい宿を見つける自信など無いし、とにかく早く休みたかったということもあって、この日ばかりはあきらめるしかなかった。パスポートをフロントで預かると言うから預けたが、なにか悪事に利用されそうで不安だった。
部屋へ入ると、まあ悪くはない。シャワーもテレビも付いている。テレビをつけてみると、日本の時代劇をやっていた。字幕ではなく吹き替えなのでとても変である。真顔の北大路欣也が、ちょんまげ姿でイタリア語を話すというのは、あまりにも違和感があってたまらなく面白い。他のチャンネルを見てみると映画のラブシーンをやっていた。ヘアーも包み隠さずなので、さすがイタリアだと思う。しかし、とにかく疲れているので北大路やヘアーに気をとられているわけにもいかないのだ。とっととシャワーを浴び、最初の旅日記を付けて寝た。
翌朝、部屋に朝食が運ばれてきて目覚めた。パンが中心の軽い食事だが、コーヒーやフレッシュジュースがやたらにうまくて、さすがはイタリアだと感激した。が、その感激も束の間である。いざチェックアウトで、例の怪しいオヤジに180,000リラ請求された。これも相場の2倍以上取られたんだろうなという感じである。シャクだが、オヤジは強面なので逆らわずに払った。要求せずともレシートはちゃんとくれる。あの白タクのあんちゃんとは態度が違って、こちらは堂々としている。
「別にやましいことはございませんよ」
といった表情で、ちょっと憎たらしい。イタリアへ着いたとたん、一晩で現金4万円以上が消えてしまった。ガックシである。が、ホテルを出たら嫌なことは忘れて次を楽しもう。今日はローマを一日見て回るのだ。朝から大快晴の素晴らしい天気である。
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